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以心伝心心~あまがさき哲学カフェ~

哲学カフェに行ってみませんか。 お茶を飲みながら他の人の話を聞いてみる。結論は求めません。カフェで賑やかに話せればいいですね。

131018第十回むこのそう哲学カフェ 開催報告

第十回むこのそう哲学カフェ 開催報告
日時:2013(H25)年10月14日(月・祝)14:00-16:00
場所:子どもの未来を考えるお店「せいのお」
参加者数:8名(男6名、女2名)

テーマ「名付けずには居られないのは なぜ?」

急に秋めいた穏やかな一日でした。午後のゆったりしたひと時を参加いただいた方々と過ごすことができました。今回は日常の風景に溶け込んでいる隙間なく並んでいるような「名付けられている」ということをテーマにしました。たくさんの意見がでて、じっくり考えられたのではないかと感じました。

◆名付けることの目的
・代名詞ばかりでは生活が成り立たないですね。歳が行くと「あれ」とか「それ」とか名前が出なくなってきますが。
・例えば「雨」と言っても日本語では非常に細分化されていて「お降(さ)がり」「おしめり」「陰雨」などという呼ばれ方をします。日常の卑近なものほどたくさんの呼び方があって、砂漠地方ではラクダの呼び名が非常に多様です。
・名をつけるのは、便利だからでしょう。
・日常生活で使っている語彙は5千。多くても1万。しかし辞書には20万語はある。つまり95%は知らなかったり使わなかったりする語です。
・何であるかを認識する為。まず自分が認識し、その認識したものを他人と共有できるため、名をつけるのでしょう。
・生活のコミュニケーションのためだと思います。
・区別して差をつけたい、仕切りを作りたい、知らないことと知っていることを区別したいから名をつけるのでしょう。
・知っているということは知っている者同士がより親密になります。隠語を使うと優越感があってプロ意識がでます。素人や部外者と違うことを意識します。学者の世界もそうですが、意識してそのような世界を作っていて名付けることの作用を利用しているともいえると思います。
・築地の魚河岸の世界も素人には判らないが、符牒が飛び交うのは独特の世界だと思います。
・1955年初版の広辞苑が10年ごとに改定するたび1-2万語増えてきました。一方で消える語もあるが新しいコンピュータや社会の変化に応じて言葉はどんどん増えています。
・差別化のために名付けること以外の方法はないのでしょか?
・服装、髪型など見えるもので差別化が図れますし、言葉遣いは見えないが差別化できますね。
・名前がなかったら区別がつかずぼやっとしたままなので、見ても目に入らない。そんな存在にレッテルを張っていくように名前を付けると存在するようになるのではないでしょうか。
・犬も猫も言葉を持っていませんが、外界は認識していると思います。
・犬の側からみると、世界が狭いということでしょう。コミュニケーションの手段は持っているが限られた情報しか残らない。しかし、言葉があって名前があるということはなにか残すことができるということです。そしてなにか残すことができれば、例えば種の保存のように過去を残すことで進歩があるのではないでしょうか。

◆愛情
・犬を「イヌ」や「Dog」と言う音を持って表現することになったのは偶然で、その意味でモノと呼称の間には縁はないと言えると思います。
名をつけると言う能力は、地球上に生まれた人間が持って生まれた知恵だと思います。名をつけると言う区別する機能が幹のようにあってそれを初めて使った人から無意識のうちにえんえんと続いてきたことだと思います。

・ペットに名付けた時、そのペットの特徴を取って名付けました。その名付けたことは「愛する」ことだと思います。と同時に、このペットは私のペットであるという所有欲があるようです。
・例えばペットの魚に名付ける場合、個々の魚を認識したいという欲求があるのではないでしょうか。でもこれは生活の必要があるためでしょうか。認識したいだけで名前が必要になるでしょうか。
・生き物に名をつけると言うことは、子供に名付けるときと同様に、愛情、思い、認識もみんな加味されていると思います。
・所有と言えば樺太や竹島はどうでしょう。樺太は日本の領土の時には樺太、今はサハリン。日本名は竹島、韓国名は独島、名付けてこそ所有の主張とつながる、と言う例ではないでしょうか。
・名前を共有するということで思い出すのは映画「奇跡の人」で、ヘレンケラーに水を触らせ「water」を理解させる瞬間が印象的です。
・それは「もの」が文字で表現できること、文字との対応があることに気付いたということです。

◆時代
・人間の生き方に時代とともに変化が起こると、新しい名称が登場します。哲学用語でもそうですし、高齢者の新しい生きかたや女性の新しい生き方、に名付けることがあります。
・名付けることはそれを何かであると認識することでしょう。アスペルガー症候群やアルツハイマー症など今まではなかった言葉が登場すると、それを認識することに力を発揮する場合があります。
・アルツハイマー症と言う言葉ができたことでそれらの人が増加しています。昔なら「ぼけ」はどうしようもないとほったらかしであったものが、「あっ、それは病気です」だから治療するということに結び付けることができるようになってきました。その意味で昔は精神的に冷たかったのかもしれません。

◆不安
・名付けていないものが身の回りにあったり現れたりすると不安になります。だから名付けるのではないでしょうか。
・でも犬でもネコでも不安は感じるでしょう。名をつけることは認識することだと思います。
・自分が病気になって診断がつかず病名が分からないと非常に不安に感じます。ですがそれまで知らなかった病名であってもそれが分かっただけで安心するように思います。
・統合失調症でもアルツハイマーでもそのような名称が決まるまでは、症状に対する切り口がわからなかったということだと思います。反対に名前が病気を作っている、という面があるかもしれません。

・名をつけるのは便利さや認識するために名付けるとは思いますが、オオカミに育てられた子供の話などによると脳の発達段階で適切な時期に言葉を獲得できないと、それ以降では言葉が入らなくなって、認識できなくなるという現象が起こるようです。
・言葉がある以上、言葉をつけられなかったら不安です。それは認識できないから不安と言うことではないでしょうか。

・名付けられなかったら不安とは、自分と他人の区分や自分が誰かと言うことと関係があると思います。名付ける自分がいて、世界を作り上げている。だから自己存在が不安であっては名付けることができないかもれしれません。コップをコップと名付ける自分が必要です。
・もし、自分に名前がなかったらどうでしょう。強い不安を感じるでしょう。名前がなかったら認識してもらえないということになります。自分で自分に名前をつけるとはどういうことでしょう。
・名前がないと認識されない、とするとそれはたちまち自己存在が不安になります。

◆価値
・大人は「コップ」と言うものをコップが目の前になくても認識している。幼子はまだそのように認識してない、そういう段階があります。
・しかし、それは表現することが絡んでいて断言はできにくいと思います。大人は認識しているということに加えて、意味づけをしている、価値を付与しているというレベルがあるように思います。
・例えば、ロケットに「ハヤブサ」と名前を付けましたが、とても親近感が生まれています。ペットに抱く愛情にも似た感覚があって、命名する時には意味づけをしています。愛情、重要性、好き嫌いなど単なる区別や認識を超えて意味づけたい、という欲求があると思います。

・道端の草には普段は特別に詳しい区別はしません。しかし必要があると区別は変更されていきます。つまり、区別があってもそれは虚構でしょう。
・意味=重要性や価値と名付けの関係は、【 見ること→区別すること→好き嫌いなどの価値づけ→名付ける→言葉によって認識が確立する】と言う順でしょうか。
・単に名付けるのではなく先ほどの病名などは、社会的な価値が付与される言葉の社会的機能によって、価値を持った意味づけがなされていると思います。
・言葉を作る人は意識していないでしょうが残る言葉、消えていく言葉があります。

◆安心
・生まれたころは、母親に抱かれて安心だったのが大きくなると、自分で安心を獲得しなくてはならなくなります。このため、名をつけて区別し安心する。ということではないでしょうか。
・自分が確立していたら安心です。その意味で自分の名前は大事です。
・ミスマッチな名前、と言うものがありますが、それは名付けた人の個性、自分流の表現になっていると思います。
・名乗ることは社会に自分はこういう人間である、安心してくださいというメッセージがあります。
・だれかが名前をつけるのですが、区別するならアルファベットだけのものでもいいはずですが、人の名前とは「社会的になった名前のレベル」にあって、意味→価値→と来て、【自己表現orミスマッチ】の段階に来ていると思います。
・ハンドルネームやニックネームは、便利ですが同時に意味を持たせています。
・命名権と言うものもありますね。それを行使して自己を確立することになっているようです。 

・他者に名をつけることは、自分がその人に意味をつける行為です。
・自分に名をつけることは、自己表現として社会的な自分と言う他者、いわば一旦客観化した自分、それに名付けと言うことだと思います。
・自分と自分以外の「名前ある」or「ない」or「なくてもいい」他者、この三者を認めるために区別しているのでしょう。

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いつも終了時にいただくアンケートにご記入いただいた中につぎの主旨のようなご意見がありました。

将来的に名は増え続けると思うが、勉強を続けることの生きにくさを感じています。名の使用数は増える一方で、データベースは増大するなどどうなるでしょうか。あるいは、国際的統一(グローバル化)が進んで、語彙数は減るでしょうか。

名付けることは人独特の働きでしょう。名付けられたものに囲まれて過ごしているその理由は、認識できないものを極力排除することで安心を得ようとする働きなのでしょうか。
意味や価値を見出す為と言うご意見もありました。同じ名付けであっても愛情を持って名付けるという行為には一段と価値が込められているようです。そうですね。自分の名前の由来を親に聞いたことがある人も多いと思いますが、自分の名前って一番おかしなものだと感じました。一番身近な名前ですが、自分が付けた名前ではありません。

さて、今後の予定は、10月25日(金)19:00-21:30に今回の会場と同じ「せいのお」にてシネマカフェを行います。ドイツ映画「いのちの食べかた」を見てお話をしたいと思います。

続いて哲学カフェは11月3日(日)14:00-16:00 カフェ・トレピエにて「自分の善さを知っていますか?」。
~英語で話そう哲学カフェ~eカフェは、11月10日(日)14:00-16:00 アイデアル英会話教室にて「Why do we have war in the 21st century?」です。



END
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  1. 2013/10/20(日) 17:38:51|
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