2019/12/21 たちばな哲学カフェ「社会」参加7名 進行 赤井郁夫
哲学カフェに初参加の方2名、中学生2名を含む面白い会となりました。
「社会」という言葉で意味されるものは一つではない、ということが得心を得るまで語られました。
まず、社会には大きく、「社会」と「(社会)」があると言うご意見から始まりました。カッコつきの社会の構成員は働く人です。すべての人は社会には属するが、(社会)には属する人とそうでない人がいるということです。そして、カッコ付きの(社会)と社会の所属は出入り自由。下段に社会があってその上または中に(社会)がある感じです。
中学生が公民の教科書に出てくる「私たちの社会」には私たち中学生は入っていない。と言います。「私たちの社会」は大人が構成する社会であり、いずれ自分たちも参加するだろうけど、中学生は含まれていない、と感じていると話します。
すると、未成年は社会の構成員だが、(社会)の構成員ではない。しかし未成年でも働いていれば(社会)の構成員だと、選挙の話を交えながら中学生の意見と大人の意見が橋渡しされていきます。
そこから、定年退職などいわゆるリタイヤすると人は(社会)から出ていくことになる。社会人とは(社会)の構成員のことであろう。という話になります。つまり、社会問題は社会人の問題か社会の問題か別れ、同じ社会問題でもどの社会の構成員かによって問題の見え方、考え方なども変わってくると思われます。
ところで、社会と言う言葉は英語のSocietyを訳した言葉です。福沢諭吉は「人間交際」と訳しました。ヨーロッパも日本も封建社会を経験してきた点では似ているのですが、フランス革命などを経て市民社会を確立して来たヨーロッパと明治維新と敗戦を経て市民社会の到達した日本とでは何かしら違うものがあるようです。この訳語をめぐる話から、コミュニケーションの話題へ続いて行きます。
さて、ひとりでいても社会に構成していると言えるでしょうか。二人、または三人以内と社会を構成しないでしょうか。ひとりで本を読んだり景色を楽しんだりしているときも私たちは片時も社会の外へ出てしまうわけではないようです。しかし、一人でいるその場は社会なのでしょうか。思考実験的にみんなはロビンソン・クルーソーになります。
そこから、中学生が一対一の二人関係がもっとも過ごしやすく、一番しんどくなるのが一対二の三人関係だ。もっと多数が集まった時はその集団の中で一対一関係を作ることができやすいので楽だ、と語ります。なるほど、社会はコミュニケーションを単位としているが、その単位が一対一であろうと思わせる意見でした。ここから親子関係、特に母子関係の難しさに話が及びます。
最後にペットは社会を構成する構成員か、という問いが立ちました。避難所にペットを持ち込むことに賛成、反対の議論を意識しながら、ペットを飼っている方からはペットは家族であるから社会の構成員だ、という意見が出ます。しかし、レンタルペットの存在を指摘された方がいました。う~ん、と一瞬場が虚を突かれたようになります。まるでモノのように扱われる場合もあるなぁ。話題は一気にイシグロカズオの「私を忘れないで」の世界へずれていきます。とある国では子どもの誘拐が頻発している。昔は身代金目的だったが、今は臓器移植が目的と言う話に改めて人間であれば社会の構成員であると言うことが暗黙の前提であったことに気づきます。
ギリシャ時代の奴隷、アメリカの奴隷、現代の臓器移植、中学生、リタイヤした人々、カッコ付きの(社会)に属さない存在とは何なのでしょうか。
この哲学カフェの間、参加者の方からは絶えず(社会)のあり方は変化していくものである、という意見が出続けていました。どちらへ動いて行くのは別ですが、動かせるものであるようです。
初参加の方がいらしたことや中学生の参加があったことでいつもと雰囲気が違ってワイワイとして雰囲気で過ごすことができました。ご参加いただいた皆さまありがとうございました。
次回は1月18日(土)「A.I.はうそをつくか」です。
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- 2019/12/22(日) 12:23:10|
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