2019年11月17日(日)
哲学カフェ@武庫東 「こじれる」
7名の方々にご参加いただきました。皆さまありがとうございました。
テーマのようにこじれた?回となりました。
まず、こじれると言う漢字について。「拗れる」と書くのですが、これは拗ねる(すねる)とも拗ける(ねじける)とも読みます。こじ開けるという時の抉る(こじる)とは違うのが面白い。
拗れるのは嫌だ、という意見に対し、「私は絶対拗れません」という意見が出ます。「拗れそうになったらさっさと離れる。だから拗れることはありません。」
---なるほど。
「拗れたままでええやんか。」というご意見が出ます。「解決できないことがあるのは当たり前で、それで拗れているんやから別に拗れることは悪いことでもないし、ほっとったらいいんですわ。」
相手の主張は理解できる、しかし賛成しかねるという場合は拗れているのでしょうか。この場合は妥協点や解決に向けて努力している、という点から事態は動いており、難しいかどうかは別にして拗れているのとは違うようです。
離婚と国家の対立、は「拗れ」のミクロとマクロに現れたものでしょうか。当事者の後ろで隠れるようにしている誰かの影響がある、とか拗れていることを脱してなんらかの決着がつく、などは共通点なのかもしれません。
どうやら拗れる、とは対立が固定化し互いに動けなくなった状態で解決の糸口が見つからない状態のことを言うようです。
「事実認識の違い」が拗れの原因と言う意見が出ます。拗れるのは「意見」や「考え」であって態度や待遇などではなさそうです。前提の違いがあっても拗れる時は拗れるし、事実認識は同じで前提の違いもないけれど、譲れない条件がある、という時には拗れそうです。
「我欲」が拗れの原因と言う意見が出ます。すると「力の強弱のあるところでは却って拗れることがない」と意見が出ます。つまり、我欲があっても力の強い人は拗れることがなく、我欲があってかつ、対等な状態であれば拗れるのかもしれません。
そこで「拗れることは対等であるということであって、拗れることは悪いとは言えない。」「民主主義においては拗れることはしょっちゅうあることなんや」と意見が続きます。
単に拗れることを避けようとすることは民主主義の放棄につながる!と、近頃の「忖度」する態度に対抗するような意見でした。
拗れるのは嫌だ、と感じるのは自分がスッキリしたい、つまりその点では相手のことを考えているのではなく、自分本位の考え方を捨てられないと拗れることになるでしょう。
拗れを放置するとはどういうことでしょう。「拗れていることをほっておけないので機会のあるごと打診したり、糸口を探ったりすることが拗れの打開に向けた活動です。」外交とはいつもこのような活動なのではないかと言う意見が出ます。
拗れるという言葉から想像していた範囲をはるかに超えて民主主義のあり様や対等な関係を具体的に示している言葉だと感じました。
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次回の哲学カフェ@武庫東は、12月22日(日)14-16時に行います。テーマは「変わる」です。
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