シネマ哲学カフェ雑感 2019年8月26日
昨日のシネマ哲学カフェは9名にご参加いただきました。ご参加いただいた皆様ありがとうございました。
シネマ哲学カフェは映像をテーマに哲学カフェを行います。今回もいろいろと考えさせられました。なかでも疑問に思ったのは日本の社会の差別性、排他性の現れ方です。
活発に話し合いが進む中、死刑制度について日本人の8割は存続させることに賛成だと言う意見が出ました。その理由がいくつぐらいあってそれぞれどの程度の割合なのかは、よくわかりません。8割という数字に少し考えを巡らせます。それぞれの賛成理由の前提となっている事柄があるのではないか、と感じました。
そして「日本では命をもって罪を償う文化がある」と森山真弓元法務大臣の発言が紹介されると、いよいよ死刑制度に賛成することは個人の根っこに日本の社会が持っている差別性があってそれが現れているのではないか、と感じました。
6年ほど前「いのちの食べ方」という映画のDVDを自宅のリビングで見ていて妻や娘から非難されたことがあります。最後の方にある牛の解体シーンを見ていた時です。私もいささかびっくりし、見慣れないシーンでドキドキしました。大量生産されている現代の農業を職業としている人々のドキュメンタリー映画でした。
命を絶つ、という行為は食材を利用する私たちにはごく日常的なありふれた行為だと思います。生きている魚をさばくことに好き嫌いはあっても、さばく人に対して特段の感情を持つことはないと思います。鶏をさばくとなると抵抗感が大きくなる人もいるでしょう。豚や牛になると頭でわかっていても「そんなことはしたくない」と思う人が多くなることでしょう。
「そんなことはしたくない」と思うこととはそんなことは考えたくもないという態度に結びついているように思います。
死刑も執行する人がいるのは当然でも、「そんなこと自分はしない」と思うと同時に考えようとしていないと感じました。つまり、死刑執行に携わる人は何を感じどう思い、どんな影響を受けているのか、周囲へどんなかかわりが出ているのか、考えられない。
「命を持って罪を購わせる、それが日本の文化だ」と思っている人は、命を絶つことを職業とする人たちに思いをいたすことが少ない私と同じことを前提にしているのかもしれない。
つまり、森山真弓元法務大臣の言葉を言い換えるならば、「日本には命を絶つ職業に就く人たちはそのことで生じる事柄を受忍すべきで私には関係がない。日本は、命を絶つことに真正面から向き合わなくてもいいようにそういう人たちを創り出し、システムを構築している。」と。
私たちはスーパーに並んだパック済みの食材を利用して命を食べるということに鈍感になっています。その根っこにあるのは、死刑制度に限らず、制度を運用する際に生じる矛盾を運用する側に解消させると言う日本文化なのかもしれません。
そのために差別と排除の論理が使われるのかと思った時、そうか忖度もこのような文脈で使われているのか、江戸時代のまんまか、とふと思いました。
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- 2019/08/26(月) 13:32:03|
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