2019年8月17日たちばな哲学カフェ「姿勢」
議論は、日本的文化としての「型から入る」と言う技法の伝達手段の話から始まりました。
剣道や書道など、道とつくものには何かしら「型」があって理屈よりもまず型を覚えることが初学者にとって大事なようです。このときになぜ、姿勢を正すということが言われるのでしょうか。
真っ直ぐ立ってみると骨格や筋肉の状態がよく分かる、など姿勢が教える側にとって、どう教えるかをガイドする役割があるのではないか、と考えました。
日本の学校教育では、姿勢に対して厳しい姿勢が主流のようです。小学校では話を聞くときは両手を後ろに回す?!そうです。私は小学校2,3年のころ、頬杖をついていたのを注意されたことがありますが「なぜ、頬杖はいけないのか」と言う説明はついぞ聞いた覚えがありません。子ども心に頬杖をついていた方が集中できている気がしたのですが。
中学3年生に住み始めた団地の隣の棟の窓に夜7時半になると勉強机の明かりがつき、9時半まで姿勢正しく勉強する1年先輩の姿が忘れられません。勉強に対する姿勢をまざまざと見たのですが、とうとうまねはできませんでした。
躾と言う字は国字です。しつけと姿勢は近い関係にあるように思います。正座は子どものころは足が痛いだけですが、年を取って来ると足の痛さより腰への負担がつらくなって正座の方が楽になってきます。キーボードを打っていても背筋を伸ばす方が楽になってきます。子どもや若者より姿勢の良いお年寄りは、「姿勢をよくしよう」と努力した結果ではなく、その方が楽だからそうしているのですが、その姿勢が美しい、と言うのはどういうことでしょうか。
物事に取り組む姿勢、と言う言い方は考えてみると不思議な言い方です。剣道で相手と対峙するときのいわゆる構えならいざ知らず、「君の仕事に取り組む姿勢はなっとらん!」と言われたらどんな姿勢をとればいいのか、とりあえず直立不動でしょうか。でも直立不動では文字通り不動なので何事も進みそうもありませんね。
残業と休日出勤などで目の下にクマを作るようなことが仕事に取り組む姿勢?なのでしょうか。それって姿勢でしょうか。準備や段取りの良さ、手際の良さやコミュニケーションの闊達さやアイデアを駆使することで物事を円滑に進めることを「姿勢」と言う言葉で表現するのはなぜでしょうか。
段取り良く物事を進める、手慣れて順調で見ていて安心な姿を美しいとも頼もしいとも思いその姿に良い姿勢を見たのかもしれません。おそらくそのような人たちは決して若くはなく経験を経た人たちだったのでしょう。その姿勢に早く達することが成長だとすれば正しい姿勢が目標となることは分かるように思います。
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次回は9月14日(土)テーマは「ブレーキ」です。
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- 2019/08/19(月) 16:04:45|
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