【たちばな哲学カフェ】
今日のテーマは「いやになっちゃった」。8名にご参加いただきました。寒い中ご参加いただいた皆様ありがとうございました。
さて、このテーマはネガティブな印象があって参加しようか迷った、と言う方もいらっしゃいました。終わってみればたくさんのご発言があり、予想を超えた話の幅の広がりに面白さを感じていただき、楽しんでいただけました。
そもそも、いやになっちゃった、の「なっちゃった」に時間の流れを感じるところから嫌になって行く過程がある、と言うお話になって行きました。
嫌になる過程で何が起こったのかいろいろな事例が出されました。夫婦のケンカから熟年離婚、仕事での上司の評価や自己評価、プロジェクトが進むほどに乖離していく思い、かと思えば疲れることも嫌になって行く過程に重要な役割があるなど、自分の都合も外部の出来事も絡んでくるようです。
であるならばと、さらに時間をさかのぼっていきます。
つまりそもそも何事かを好きになるとか嫌になるとかが起こるためには、何事かを始めなくては始まらない。
一体、何事かを始めるとはどういうことでしょうか。すると、「無関心」が吟味され始めます。いやになっちゃた、とは少なくとも始めのうちは無関心ではなかった。関心を持っていたことが前提としてあることがわかります。
無関心と関心を事例を引き合いに出しながら話していると、いやになっちゃった、と言うことが持っているネガティブなイメージが少しづつ変化し始めます。
いやになるのは悪いこと?と言う疑問と「なっちゃった」と言う軽さが吟味されていきます。
ここで時間がスーッと流れていやになっちゃった瞬間がクローズアップされます。
その瞬間、今までの事柄がすべてチャラ、やめ!となるのですが、何がチャラにされ、何がやめになったのでしょう。
意外にも、チャラにされたのは自分の都合なのかもしれません。自分の期待、目標、あるべき姿、人間関係の中で自分の立ち位置を決めようとしていた、自分の都合。
ここで吟味されたのは自分の都合、と言うフレームワーク、準拠枠でした。サラリーマンの常套句「家族に責任かあるから仕事は続けるべき」はたしてそうと言い切れるでしょうか。
自分に次の仕事を探していく能力や意欲がないこと棚に上げるため、「家族のために働いている・・・」を言い訳にしてすがりつく。これらの話し合いから、いやなっちゃって投げ出すことは、本当の自分に真っ向から向き合うことなることが見えてきます。
終りの方では、いやになっちゃったその先に何が起こるのか、を吟味していきます。事例が次々と話されていきます。
いったんチャラにした人間関係。修復する気はさらさらないにもかかわらず、いつの間にか新しいそして、望ましい関係が築かれている。
そううまくばかりはいかない。チャラにして作り直した人間関係もやはり時間がたつと同じように「いやになっちゃった」となってしまう。
何度もいやになっちゃってなぜ、悪いのか。そうならないところまで人間関係や自分の立ち位置を構築し続けることで、ようやく落ち着いたことろに来るのではないか。
いやになっちゃった、ことがよくある人もあまりない人もいやになっちゃった時は自分の都合を自分で調整するチャンスなのではないでしょうか。
いやになっちゃって何もかも放り投げてぼーっとすることは、自分を見直すよい機会なのかもしれません。
とても面白い時間でした。
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- 2018/12/15(土) 23:40:02|
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