第五回哲学カフェ@武庫公民館
「~シリーズ 考えるを考える~ 第5回 どこで考える」
日時:2016(H28)年7月24日(日)14:00-16:00 会場:武庫公民館 参加者数:11名
むこのそう哲学カフェがシリーズで取り組む「考えるを考える」。今回は「どこで考える」と言う少しあいまいなサブテーマを付けました。シリーズも5回目を迎え、考え方がこなれてきた ? のか、柔軟な発想と多様な切り口からたくさんのご発言をいただきました。
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◆どこ、とは?
・「どこで考える」のかと問われたら、何かわかないとか知らないとかで引っかかった処で、と答えたいです。
・何々のどう言う時、と言うような「場面」で考えていると思います。
・考えるのは、頭のどこかだと思います。それは個人の頭と言う意味ではなくて、・・・つまり、宇宙の中の地球の生物の中の人間の体の中の脳の中のどこか・・・と言うような意味です。
・考えることの中で考えている、と言えるように思います。なんだか再帰的な、循環しているようですが。
・乗り物で動いているときは、じっとして考えている時と違う考えをしていると思います。
・船の後部デッキで柵にもたれながら流れていく水を見ているとモードが切り替わるような感じで、考え方も変わるように思います。
・新幹線の車窓から流れる景色を見ていると新しい考えが次々に浮かんでくるようです。ひとところに留まっていない景色につられて考えているように思います。
・論理的に考えること以外に、「ふっと」感じることがあります。直観的で無意識に考え付く、と言うことも多いと思います。
・場所によって受け取る刺激が違うことによって考えることが異なっているように思います。
・心で考えるのではないでしょうか。心と言う場所はここや!というところはないのですが、人間性の宿っている場所だと思います。
・考える前に感情の動きや気持ちがあってそれを言葉などを使って表現する、それから「考える」ことに繋がっているように思います。考えることはその感情や気持ちを客観視するすること、言ってみれば脱中心化することだと思います。
◆考えるとき
・普段外の世界を理解しながら暮らしていて、何か自分の体系と違うことが刺激となって考え始めるのだと思います。
・外にあるものを認識することに、脳は必要でしょうか。単純な生物には脳がないが生きていくために必要な外部の認識はできていると思います。
・考えることは他の動作や運動と同じような、そのうちの一つではないでしょうか。
・考えるということは、その人とその場所に結びついていると思います。
・私たちは普段「考える」という言葉を広く使っている。感じたり思ったりすることも「考える」と表現してしまっているように思います。
◆人工知能
・人工知能の発展が目覚ましく、チェス、将棋に続いて囲碁でもコンピューターが勝ちました。将棋や囲碁の手を指すのは、棋士でもコンピューターでも同じだと思います。
・人工知能は<反省>ができているとは言えないので、考えているとは言えないと思う。
・人工知能は考えているのではなく、予想しているのではないでしょうか。
・今の人工知能には感情の交換ができないので、考えることもできないと思います。
・反省や内省によって、自分自身を意識するということが考えるということはできないと思います。
・人工知能には人間味のなさがあって、考えているとは思えません。
・人工知能は人間のある能力を部分的に極端に拡大したもので、他の機械と同じことのように思います。天気予報でもそうですが、予想するという能力を拡大したものだと思います。
・最近、自動運転や自動診察が始まっていますが、人工知能が学習能力を持ったことが発展につながっています。学習する能力は「考える」ことにつながっていると思います。
◆近代的「考える」
・デカルトの「われ思う故にわれあり」と言う思想に近代は支配されていると思います。
・意識のそのものの透明性は確保できない、つまり言葉を使わざるを得ない。言葉で考えることの限界があるように思います。
・考えることは創造性、感動、目的などと深い関係があると思います。
・考えるとは、動作や運動の一つではないでしょうか。そして考えることには人と場所が結びついていると思います。
・考えることは意識と関係があると思います。でも意識することに脳は必要でしょうか?
・人間は二項対立を使って世の中を見るのだと思いますが、禅の公案などには二項対立を超えたところで考えることが説かれているのではないかと思います。
・歯が痛い時などに考えるのはとてもつらいですが、その時は「患部で考える」ような事になっているのではないでしょうか。痛さで考えると言うような事もあると思います。その時はどうしようもない、痛さに任せるというような感じだと思います。
・夢の中で考えるのは考えているのでしょうか。とても素晴らしい事を考えた!と思って目が覚めると、内容は忘れていて夢の中で考えたことは素晴らしかった、と言う感覚だけが残るのは何なのでしょう。
・マインドコントロールされていながら考えると言うこともありそうですが、なんだか怖いですね。
◆言葉
・どんな社会に住み、どんな歴史があって、どんな言葉と思考をするか、さらにそれを表現することは、言葉を超えるところだと思います。そこも考えるということに含まれているように思います。
・禅などでは「考えてはいけない」と言われます。考えないと見えてくるものがあると言われるようですが、これは二項対立を超えるための公案を考えるためにも言われることのようです。
・文章を書くとき、考えていないのに言葉が降ってくるという感覚を覚えることがあります。これは考えているのでしょうか。
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11名の方にご参加いただき、たくさんのご意見をいただきました。考えるという言葉が示している現象が随分広いようだと感じました。感じる、ピンとくる、考える、表現すると言う一連の活動がいつもセットになっているようで、考えることのみを取り出してみると意外にシンプルなことのような気がします。
考えることよりも、表現することの不思議さが際立ってきたと感じています。そういえばむこのそう哲学カフェの第一回目のテーマは「人はなぜ踊るのか」でした。その中で印象に残っているのが、誰もいないところで踊ると言うことに何か生命なるものを感じたことでした。
「考えるを考える」の第六回を行ってみたいと思います。
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- 2016/07/29(金) 23:47:57|
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