むこのそう哲学カフェが初めて出張!?しました。5月25日(日)、大阪市北区中津にある<中津ぱぶり家>の二階でシネマ哲学カフェを行いました。
いつもの会場は地域の会館で小さいといえども30畳程の洋室で暗幕もあり、プロジェクターを投影するには比較的良い環境です。
しかし中津ぱぶり家は、普通の商店街にある店舗兼住宅の2階。手製のスクリーンを張ると部屋の一面が完全に埋まってしまいます。
出来るだけ大画面で見てみたいと調整してもモードが変わるたびににスクリーンをはみ出します。なんとか縦1.4m、幅3mに目一杯映像を映すことが出来るように、スピーカーの位置もこだわって精一杯準備しました。
今回見たのは「渚にて」(1959年、米国、モノトーン(白黒))。タイトルだけ見るとラブロマンスかと思いますが、1959年当時から見た全面核戦争後の近未来SFです。
11名にご参加いただき、普段武庫之荘までは足を伸ばしにくい方もご参加いただけました。皆さま、ありがとうございました。
哲学カフェは結論を求めません。そのためモヤモヤしたまま会場を後にされる場合も多いのですが、私も今回は随分モヤモヤしています。
哲学カフェの話題にはなりませんでしたが、この映画での「家族」の描き方がずっと気になっています。家族らしい家族は1組の若い夫婦とその子どもだけ、と言う設定はどういうことだったのでしょうか。
1959年当時、米国に於いて「家族」は今よりずっと価値が置かれていたにもかかわらず、一人ひとりが個別の人生を行きて行く姿を描かれていたように思いました。
ひょっとすると核家族が崩壊することを予見していたのか、などと思いました。
あるいは、全面核戦争後地上に残った人はそれぞれの「死を選ぶ」ように描かれていることが、「死を選ばない」ということがどういうことかを浮かび上がらせて来ているように思いました。
この映画のほか核戦争や隕石の衝突、太陽フレア爆発、殺人ウィルス、など人類が絶滅すると言うモチーフの映画が多く撮られて来ましたが、なぜ、このような終末的テーマが繰り返し持ち出されるのでしょうか。
この映画は反戦映画だとされているそうですが、比較は無理ではありますが私にはトゥールスレーンの錆びて歪んだベッドの枠のほうが戦争暴力を告発して止まないように思えます。
さて、6月はシネマ哲学カフェは会場の都合でお休み。7月19日(日)にいつもの西富松会館で行います。
5月のむこのそう哲学カフェのメイン行事は終わり、6月は7日(日)にeカフェ、27日(土)に哲学カフェを行います。
対話の楽しさ、豊かさを感じられるようにこれからもたくさんの方に参加していただきやすい、むこのそう哲学カフェを目指します。
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- 2015/05/26(火) 00:58:04|
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