第6回むこのそうシネマカフェ開催報告
「39 刑法第三十九条」1999 松竹 堤真一、鈴木京香 森田芳光監督
日時:2014(H26)13:30-17:00 場所:西富松会館集会場 参加者12名
◆少年法と三十九条
・ドキュメンタリーではなく、ドラマだったので惑うところもありました。あまりリアリティーのないドラマになっていたと感じました。
・犯罪の責任を問わない場合には、少年法と39条の心神喪失によるところと二種類ありますが、両方とも描かれていましたね。
・いずれにせよ少年法や心神喪失によって犯罪の責任を問わない事に釈然としないものがあります。一生辛い思いをするのは被害者でしょう。加害者が責任を問われずに普通に生きる事が矛盾を感じます。
・少年法によって罰せられないのは犯人が更正できることを期待するのですが、社会がそのように期待しても被害者から見ると釈然としない。
・この映画にはいろいろな家族が出て来ました。このこともテーマだと思う。
・登場人物のすべての人が病んでいる。理不尽な世の中でも光が見えたらと思うが、全く見えなかった。見なければ良かったです。
◆主観と責任
・精神鑑定は主観で決まるの?って思いました。
・裁判では主観は排除できません。裁判は結局被害者から見れば軽いと思え、加害者から見れば重過ぎると思え、裁判官が関与する事でなんとかバランスを取っていると言う事なのでしょう。
・主観について言えば、映画の中で被告が別人格を現して香深の首を絞める、しかしその時に肌に触れた事で香深は、違和感を感じて再鑑定へと持ち込んだ、と言うストーリでした。この事は直接触れるとか主観というものが大事なのだと感じました。
・ 少年法では更正を信じて罰しないので、少年だった加害者が長じて弁護士になったと言う話は実は大成功だったはずですが、被害者からはやはり釈然しなのもが残るのは確かです。
・現実に39条はどのように運営されているのでしょう。
・責任ってなんやろうって考えます。佐世保事件の高校生は少年法によって責任は問えないのですが、問うても良いのではと思います。
・映画の主題は39条の不条理さに対して主人公が抗おうとして起こした事件だと解釈しました。
・法律は冷たく、決められた事は簡単には変えられないものです。人を裁く、裁判所の決定は端から見ていると釈然としない事が多いです。
・更正の可能性があると見なされる未成年、特に13、4歳までの子どもは責任能力のなさよりも更正の可能性を信じると言う事で少年法が出来ています。39条は情状酌量ではなくて、ここは責任能力の問題であって、心神喪失状態では意図して行っていないので、その人の人格を裁く事は出来ない。と言う事です。
・ストーリーの読みにくい映画でした。殺人事件の動機とその結果が直線的に結びついていないように描かれていて、色々考えられそうです。
◆人格とはなにか
・39条で心神喪失状態であれば責任能力がない、別人格が人格の一部なのだとすると、別人格のやった事はなぜ責任を問わないのでしょうか。
・多重人格は、ひとつの確固たる人格ではないのです。だから別人格の時に行った事は別人格に責任を問う事が出来ないということです。
・39条のような掟は室町時代からあったようです。被害者が認めてくれたら、保護された。本来なら島流しになるところを、刑を減じて家族の監視の元に置く、などの減刑措置が行われて来たようです。
・裁判によって決定が出て検察や裁判所の管轄を離れると保健所、厚生省の管轄となりますが、現実には再犯率が高いそうで、現場の刑事さん達がやる気なくすなどと言う事もあるようで、精神病院の付いた施設が必要だと言う議論もあるようです。
・実際には、精神鑑定を行った結果がストレートに判決に反映されるのではありません。心神喪失状態であったと言う鑑定があっても判決が出る場合がほとんどです。
・起訴前に簡易な精神鑑定で心神喪失状態だと判断される事が多いそうです。これが問題で検察は起訴しない。つまり罪に問わないのですが、この映画のテーマはこのように罪に問わない事が人権の侵害に当たるのではないか、ということです。
・ 39条の免責や減刑を狙って、偽ってしまえるのが問題なのかと思います。
◆自由意志
・法律の根本に「自由意志」と言う考え方があります。自由に選べる事が出来る状態で、選んだ事の結果に対して責任があるのは当然だと考えます。逆に自由に選ぶ事が出来ていない状態では責任は問えない、と言う考え方です。
・自由意志によって、酔っぱらうのだから、酔っぱらいの行為によって罪を犯せばその人に責任があります。
・裁判員裁判に精神鑑定が絡むとどうなるのでしょう。専門家が下した鑑定結果がどのように扱われるのか疑問です。
・同じ結果に対し違う判決が下ると言うのは、どうだろう。ヒトラーは年齢や心神喪失状態などを考慮しないで裁判を行うようにしたそうです。
・そこは、行為の結果はだれが行為してももかわらないですね。その結果を問う事は誰でも同じ事です。しかし行為そのもののは、行為が悪いことであることを理解できずに行ってしまった人を裁けない、という考え方もあります。
・ 罪を犯すのは人間ですから、権力を持った裁判官が間違える事もあります。だから裁判員裁判ができたのでしょう。
◆連鎖を断つ
・事件の連鎖についてはどうでしょう。この映画のストーリーは少年法によって罪に問われず、放免されたのち、その人をターゲットにした犯罪の連鎖が描かれています。
・ 犯人を憎むということは自然な事なのです。自分のみに置き換えてみれば身内を害されれば報復を望む気持ちが湧いて来てちっとも不思議ではないでしょう。
・ 修復的手法と言うものを使って加害者と被害者が面談を繰り返し、関係を修復するということが行われています。
・ 被害者は、死刑を廃止することに違和感があるかも知れないが、死刑となって被害者の悲しみは癒えないでしょう。気が晴れるのでしょうか。死刑にならずそのまま行きて行くのが罪滅ぼしになるのでしょうか。
・裁かれたとして、だれが満足するのは誰なのでしょう?負の連鎖、はなぜ続くのでしょうか。
・ そのような負の連鎖をさせない知恵みたいなものとして、アーミッシュの人たちの知恵があると思います。アーミッシュとアメリカの他の人達との間でしばしばもめ事を起こります。しかし最終的に、アーミッシュたちは受け入れてしまい連鎖を断ち切るのです。相手との関係を修復するしかない。それしか救いがないのです。この方法は修復的手法と言うものとよく似ています。
◆理不尽
・もし、身内が被害に合い、加害者と向き合ったとき、理不尽がどうかと考えると、相手が認知症だったら理不尽に感じない、と思います。逆に責任能力があれば理不尽に感じるでしょう。
相手を知るに連れて理不尽さが解ける瞬間があれば許すと言う時が訪れると思います。
・ 加害者と被害者が裁判が終われば夫々がその理不尽さを消化していく、そのような状態で今言われた理不尽さが解ける瞬間は訪れるのでしょうか。
・ 現代のようにもめ事に国家が介入する。そのことで被害者と加害者の時間と場所を切り離すしかないでしょう。被害者の家族が浮かばれない。
・修復的手法がなぜ有効なのかよくわかりませんが、裁判を傍聴していて気がつくのは、加害者に対して反省や謝罪よりも説明して欲しい。どう言うわけだったのか。説明を求めると言う事が多いです。両者が話す事は救済に繋がらない場合もあるようです。
たくさんのご発言があり、話題もたくさんありました。
みなさん、ありがとうございました。
次回のシネマカフェは10月19日(日)13:30−17:00
ドキュメンタリー映画「日本の嘘」を見ます。
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- 2014/09/10(水) 00:19:17|
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