「進化の運命」サイモン・コンウェイ・モリス 2010 遠藤一圭他訳
本の分厚さに大いに構えたが、参考文献リストが膨大なのがその理由だった。
進化という現象に我々はいまだにたじろいでいる。人間が何なのかという問いにさっぱり答えられていない。それがこの本の主張であろうか。
科学は万能ではない。ただひたすら事実をあぶりだしていくロジックなのだろう。だから、いつまでたっても科学の成果には解釈がついて回る。同じ事実をベースにして如何様にも解釈されうる。解釈の違いが論争を生み、それが科学を前進させている。
すると、解釈することとは何なのか、という別な問いが立つかもしれない。
解釈は「納得」と不可分である。解釈学という学問のジャンルがあるが、なんだろうか。
解釈や科学、これらと対照的なのが政治である。
今を生きるために、遣り繰りと切り盛りをする。経世済民と言う要は遣り繰りである。この「遣り繰り」という言葉は進化において重要な概念である。進化はけっして突飛なことを行うのではない、非常に時間をかけた少しづつの変化の積み重ねが見た目の跳躍を生んでいるだけのことだ。むしろ、進化にあっては生命が獲得した「資産」を経済的に、やりくりしながら環境の変化をしのいでいる。その我慢の代償、あるいは成果として進化を得ているのだと思う。
進化はむしろ、政治と比較されるべきものではないか。それによって進化とは何か、進化が目指しているように思えるものの目的や原動力についての示唆がえられるのではなかろうか。
環境の変化をしのぐという現象が、生命の必然であろう。いやでもなんでも生命は凌いでしまうのである。乗り越えてしまうだ。生命現象の目的は「乗り越えること」、「環境の変化にに立ち向かうこと」そのものであるように思う。
そう考えるならば例えば、人類がなぜ宇宙を見てしまうのか、と言う問いにはどうこたえられるだろうか。それは、「目が星空をとらえるからではない。人類と言う形をとった「生命」が環境を探査し、来るべき変化を乗り越えようとしているのだ。」と言えるかもしれない。
すると、政治にも照り返されるものが浮かび上がる。政治は今をしのぐために、より良い政治は来るべき環境の変化に備えるために、この二つのために存在する。
随分、シンプルなことではある。
僕らは何者か、「環境の内側にあって、内側から環境の変化を乗り越えようするもの」「環境の外側に出ることはできない。内側から知性を持って想像することで変化を察知しようとするもの」それはつまり、生命そのものである。人類が獲得した知性は生命の神髄であろう。
生命の進化や人類の進化を考えることは世俗と隔絶したことではない。むしろ、日々の営みの根源を確かめる作業だと感じている。
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- 2012/03/03(土) 21:40:19|
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