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以心伝心心~あまがさき哲学カフェ~

哲学カフェに行ってみませんか。 お茶を飲みながら他の人の話を聞いてみる。結論は求めません。カフェで賑やかに話せればいいですね。

0140312 No6 eカフェ開催報告

eカフェ6:「Which kinds of animals can we eat?」       進行役 赤井 郁夫
日時:2014(H26)年3月9日(日)14:00-16:00            参加者:5名(男4名、女1名)


◆動物を食べるということ
・私たちは犬を食べませんが韓国では食べますが、それはなぜでしょう。
・ペットとしての動物と食用の動物と何が違うのでしょうか。
・鶏などをペットとして買っていたとしても鶏肉を食べることに特に違和感を覚えるとは思いません。
・食べるために飼育することと、野生の動物を狩ることとはどうちがうのでしょう。
・狩りをするのは生きるために食べる(eat to live)ということであって許されることだと思います。野生の肉食動物は狩りでは必要最小限の獲物しかとりません。この点からも狩りは許されるのだと思います。しかし飼育して食べる動物を“作る”ことは、「食べるために生きる(live to eat)」ということを認めることになり、許されないのだと思います。
・イスラム教では動物を屠殺する作法がありますが、その方法は動物が苦しむそうです。あえて苦しむことを知ること、我々は動物を殺しているのだということをはっきりと自覚するためにそのようにするそうです。
・モンゴルの平原では最も苦しまない方法で屠殺することが定められているそうです。
・キリスト教では家畜を飼うことは神に許されたことであり、それを苦にする必要はない、と言うことになっているそうです。
・祖母が無駄な殺生はしてはいけないと、流しへは絶対に熱湯を流さないようにしていました。熱湯が地面に居るアリなどの小動物に掛かって死なないように、必ず水で薄めてから流していました。

◆痛みを感じる
・ニュージーランドではある種の甲殻類(えびカニの仲間)を殺すのに、作法があるそうです。
・死刑には日本は絞首刑ですが、電気椅子や薬剤での死刑があります。アメリカのある州の死刑では薬剤が使われていたそうですが、その薬剤を北欧から輸入していたところ、供給が止まってしまい、代用品で死刑を執行したら死刑囚が大変苦しみながら亡くなったそうで問題となったようです。
・痛みを感じることが動物の屠殺に否定的な意見を持つ人たちが主張する問題点です。
・しかし、痛みを感じなければOKなのか。と言う問題になると、ごくまれに痛みを全く感じない人がいるのですが、ではその痛みを感じない人には何をしても良いのでしょうか。
・1930年代にヨーロッパの国で“ペインレスの人々”の存在が問題となり隔離されていたことがあるそうです。その状況は差別そのものだったそうです。
・植物は痛みを感じませんが、本当のところはよくわかりません。ある研究では恐怖感を覚えたり泣いたりすることもあるそうです。
・伝えたいことに相手が反応しないからと言って、わかってもらえないと言うのは間違いではないでしょうか。
・肉食動物がハンティングを行う場面では、獲物となる草食動物は必死に逃げる過程でアドレナリンが分泌され、襲われたときの痛みを感じにくくなっており、そのまま絶命する、つまりあまり痛みを感じることなく絶命すると言います。

◆食肉を得る
・動物は親がハンティングをし、子供に与えます。つまり子供は狩りをしません。同じような意味で人間は大人が屠殺を行い、子供はしない。加えて分業が発達することで特定の人だけが屠殺を行うようになったのではないでしょうか。すると屠殺が限られた人で行われるということも当たり前のことのように思えます。
・子供が大人の仲間入りをするイニシエーション(儀式)があり、それを経ておとなの仲間となり狩りに出かけ屠殺も行うようになって行きます。それがその社会で子供が育つということです。
・日本では仏教と支配機構の影響だと思われますが、肉食を遠ざける一方、被差別部落のような特定の人に嫌な仕事を押し付けることで屠殺の事実を遠ざけてきました。明治以降、肉食が進みましたが、長い間肉を販売することも罪深いこととされてきました。
・海外でもインドのカースト制度などでも嫌な仕事を引き受ける人たちがいます。
・嫌なことを引き受けていていないのであれば、例えば屠殺を遠ざけて良しとするのであればその人は肉を食べてはいけないと思います。

◆家畜と野生動物
・家畜を飼うということと、食肉用の動物を飼育するということは同じではありません。日本でも馬などは大切にされてきました。食肉用の動物を飼育するようになったのは日本では明治以降のことです。
・鹿狩りやイノシシ狩りなどは行われていました。ただ、その肉が流通するほどの量ではありません。現在ジビエ料理が流行り、作物の食害を防ぐ目的で駆除されたシカなどを積極的に利用しようとされているようです。池田市ではジビエ料理で町おこしをしているようですし、猪名川町でも同様な活動をしているそうです。
・食肉が工業的な手法で飼育し流通するようになったのは最近のことです。
・食べ物としてなじみのあるものを食べるのだと思います。食べ物として出会うか、かわいがる対象として出会うか、が将来を決めているのでしょう。
・おいしいかどうかは重要で北海道で食べた鹿肉のジンギスカン鍋は美味しくなった。
・害がないものであれば何でも食べられるはずです。でも実際は食べないものが沢山あります。

◆食べられる肉と食べない肉
・今は生きた人間を食べませんし、遺体を食べることはありません。東北地方では火葬した後の骨をかじる習慣があるそうです。他の地方から嫁いだ人にはかなりショックなことのようですが、偉人の力を継承する、祖先と一体になるという考えでカニバリズムは広く行われていたようです。
・一つの基準で決められているようではありません。<残酷さ><知性><痛み>などが基準になっているようで、それは同情心によって決められているように思います。相対主義的にいろいろな状況によっても変化するようです。
・誰がそれらの基準を設定するのでしょうか?
・基準となっているものには慣れる/慣れないの尺度があるようです。それらはコミュニティーに属しているものだと思います。子供の時代から慣れていることが決定的なのでしょう。
・コミュニティーの基準に従って何物かが切り離されると、それはよくないものと化すのですが、それが今度は逆の魅力が生じて人を引き付けるということがあります 
・広食性の雑食の動物は種の保存的には生き残るからイルカや鯨や牛や宗教上の理由などによって食べてはいけないのはナンセンスではないでしょうか。
END
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