2022年4月23日(土) 第20回 子どもの育ち哲学カフェ
第1部の「親業」につづいて、第2部「親はなくても子は育つ」か?をテーマに哲学カフェを行いました。まず、「親はなくても子は育つ」とは誰に向けて行った言葉なのか、というとことから始まりました。
◆この言葉は誰に向けた言葉なのでしょうか?
・子にむけて⇒ 仮に親がいなくても悲観しなくて大丈夫だよと言う意味合いでしょうか。
・それとも親に向けて⇒ 親として頑張る必要はない、最低限にしていればよい。反抗期には親元を離れても大丈夫。子は友達がいる。 自分で生きて行く術を見つける。と言う意味合いでしょうか。
親が「なく」ともとは、どう「ない」のでしょうか?
・関係性の崩壊でしょうか。虐待などシビアな事例があります。すでに親子の関係性が破綻していても、子どもは育つことができる、と言う意味合いでしょうか。
・それよりもそんな親はないほうが良い、と言っているのでしょうか。
◆この言葉の前提は何?
生れた子どもは育てるしかない。あるいは死なせない。と言う社会的な合意?があるのかもしれません。
・子どもに何かを与える。子どもは欲しがっていないかもしれないが、なぜ与えようとするのでしょう。
・明示的な知識は、子どもが欲しがると言うより、親が伝えたい、と思うことでしょう。
・このようなふるまいは、親の言葉になる前の振る舞い、態度がケアなのでしょう。
◆親に対して「大丈夫」と言う
親に対して「大丈夫」と言ってあげなきゃいけない事情が親側にある。不安はいつもある。
アダルトチルドレンの親に対して。
◆じゃりン子チエ
・昭和の下町が舞台の漫画でじゃりン子チエの世界を思い出す。チエの父親テツは自由な、なんて勝手な奴だと思う一方、やりたいことやっている。その生き方をチエは見ている。
・テツが子育てをしているとは思えない。テツはチエが育ってほしいと思っているが、つまり、「子を育てられたくても子は育つ」ということでしょうか。
・テツはテツなりの振る舞いが、(大人の)モデリングになっているようです。
・チエを取り巻く世界の中に蓄積するものがある。
・同世代、場を与える そこに居てもいいよ、と思わせることが子を育てる、ということにつながっているようです。
◆学業の終わりの社会化
子育ては、排除しないこと、普段はほっとく、存在を認めること。 待つ、聞く、褒めない、しからない。そのようなことが行われる場所で、子どもは自分の力で脱皮し、自分で社会化を成し遂げて行く、ということなのかもしれません。
子どもは育てられたいと思っている大人がいます。元気に大きくなって欲しい。と思う大人が、子どもが成長する過程を見守っていると、自ずと「親はなくとも子は育つ」と思える、ということなのかもしれません。
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ついこの間、「私は子育てしていないなぁ」としみじみと思ってしまいました。なんだか、寂しいなぁ。 どうしたのかな・・・と、まだぼんやりとしています。
「親は無くとも子は育つ」
1,2部の哲学カフェを通して、このことわざは子どもが育って行く力を信じればよい、と言っているのだと感じました。
育てよう、と思うのではなく、育つのを見届ければよい。
子どもの育ち哲学カフェは、改めて育ちとはなにかを考えてみることで、私たちの世界に不可欠の次の世代を迎えることに向き合っていきたいと思います。
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- 2022/05/07(土) 15:30:40|
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子どもの育ち哲学カフェ
2022年4月23日(土) 第20回 子どもの育ち哲学カフェ第1部は「親業」をテーマに哲学カフェを行いました。まず、親業を提供するとはどういうことか、から始まりました。
◆A.I.子育て
親業は無限定です。何でも必要なことをしなくてはいけません。そこで「A.I.子育て」と考えたらどうなるでしょう。
結構いい線いくのではないかしら。なぜならみんな初めての子育てなので、スキルはないし戸惑うことばかりです。昔と違いおばあちゃんでも子育ての経験はせいぜい二人ぐらいです。
どこまでが子育てかと言う点も、時代や社会によって幅があると思います。
人として育つということは、死なずに育つ、人並みに育つことであり、それに加えて選択肢を豊かにできればよいと思います。経済力の有無は関係なく、子どもに与えられるものでしょう。
◆誰が親業を提供するか
親業を提供するのは誰でも良く、問われないのではないかしら。
赤ちゃんポストの例もありますが、そもそも親は人間でなくても良いのかもしれません。オオカミに育てられた子どもの実例があります。ただ、長期間人と接することなく育てられると、生きてはいるけど、「人間」にはなれないようです。
つまり、親が提供するのは、栄養、人間性/社会性で、それに加えて学業ということでしょうか。
◆親になる
父母がそのまま親になることは当たり前なのでしょうか? 親になることを選ばないと言う選択肢は当たり前の選択肢ではないようです。しかし、逆に世間的に認知されているのであれば、親にならない選択も普通になるでしょう。
産んだら育てなくてはいけない、と言う価値観、空気があります。この命が価値を持つ、と言う考え方は少子化が進んでから以降のことのように思います。
死が遠ざかっている安全な生活ならではこそ、少ない子どもの命の価値が高くなっているように思います。
◆子が受け取るもの
親に育てられる子どもは、何を受け取っているのでしょう。子が受け取っている空気があります。例えば医者になる、と言う家庭での干渉や空気を受け取っている、と言うような例はたくさんあります。
◆社会からみた親業
仮親と言う仕組みは子どもを育てることにより適切な大人が関わる仕組みになっているようです。仮親は子育てのノウハウを蓄積しているかもしれないですね。
仮親は色んな子どもに会うたびにスキルアップしていく。
安心して中卒で過ごせる社会、選択肢のある環境を実現する、というのは大人にしかできない仕事です。どんな社会を実現するか、そこから子育ての失敗もみえてくるでしょう。
子育ての失敗は親の理想と子の現実のギャップかもしれませんが、実は社会の理想と個人の現実のギャップなのかもしれません。
親としては現に子が生きていれば子育ては成功。その後は子の選択ともいえます。すると、親は子に付き合う、見守る。一方で子に生きる道筋を示す。それによって子がサバイバル力をつけ、考えることができ、意見を言えるようになる。
生きる道筋は子が見つけるものでしょう。それは無限にある。それを限定的にしてしまう親、どうすればいいのでしょう。
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私は親業を社会化するのがよい、と考えています。しかし私が親をしているかと考えると誠に心もとない。
親とは、もっとボヤっとしたものではないのかしら。などと考えながら第2部「親はなくても子は育つか?」へ続きます。
- 2022/05/06(金) 16:06:42|
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