2022年1月16日(日)14-16時 於:武庫東生涯学習プラザ
参加7名。テーマ「書く」あなたは何のために書くのでしょうか?
あなたは、文字を覚えて初めて何かを書いたときのことを覚えていますか?
私は、覚えていません。
でも幼いころ、書くということは鉛筆を力いっぱい握って、紙がズレたり撚れたりするのを小さな手で押さえながら、書く文字をひとつづつ声に出して一生懸命書いていたように思います。
他の絵など描いたものと少し違っていたように思います。
書けた文字は少しだけ。でも、その文字は特別でいとおしく、温かみを持っていました。
自分が書こうと思っていた格好とはずいぶん違っています。不細工でがたがたで力の抜けた線が奔放で、何か違和感がある。書くとこうなってしまうのか、と言うような諦めやなんだ詰まらない、と言う思いがあります。それでも、何か大事でいつまでも取っておきたいものでした。
日記を書く。私は書いた日記を読み返すことはほとんどありません。1年の初めに今年は日記を書くぞ、と思います。何があったのかとか気温とか、誰と会ったとか、電話や手紙とかを記録する。気が付いたことを書く。そう思ってもうまく続いても1か月です。途中で大抵忘れてしまいます。
日記を記録として大切にされている人もいらっしゃいます。日々考え気付いたことを記録しそれを練って行く。そのために日記をは大切だそうです。
では、読み返さない日記は何のために書くのでしょうか。書くことそのものに意味があるのでしょうか。書きつける時は忘れる前に書こうと慌てたり、ふっと思い出したり、思い出そうと呻吟したりします。その行為が何事かを思い出させ定着させることに役に立っているようです。
書くことは、「誰かに向かって」とか「読む人」を前提としているのではどうやらないようです。
この文章はパソコンを使って書いています。ワードプロセッサーは書いて消して、入れ替えて並べ替えて、とても便利です。
何度も読み返して、書いて消して入れ替えて並べ替えます。書き終わってから少し時間を置いて読み直すのが良いですね。
何度も読み返せるということは、推敲に新しい地平を開いているように思います。推敲を重ねることは、最終的な出来栄えが良くなること以外に、考えを繰り返し吟味することになります。推敲がしやすいということは、文章を作るようになった人間が手に入れた新しい境地(少々大げさですが)でしょう。
私は短歌が好きです。下手の横好きと言うやつですが、どこがいいかと言うと推敲です。短いのでいくらでも推敲ができます。しかも俳句ほど短くないので推敲しやすい。
さて、この推敲は書くことと違って「読む人」を前提としていると思います。短歌で最もダメ出しを食らうのが独りよがりの短歌でしょう。意味や情景が伝わってこない。短歌も俳句も少ない言葉でどれだけ広い世界を描けるか、を大切にしているようです。ニュアンスの豊かさ、言外の言、余韻、など書かれていないものを通して表現しようとします。
書くことは話すことに比べて、厳密であるとか確実であるとか言われるようです。話すことは残っていかないのでそのように言われるようです。
でも、書くことには厳密さと言うより言葉を越えた豊かさを携えることができるようです。
逆に話すことは繰り返したり少しづつ変化を持たせたり相手に応じて話してみたりと変幻自在に核心を紡いでいくようです。
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次回は2月20日(日)14-16時です。テーマは「評論」
皆さまのご参加をお持ちしております。
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