第64回哲学カフェ@武庫東 「老化」
2021年10月17日 武庫東生涯学習プラザ
参加7名
急激に季節が進んだ日曜日、天気は良かったのですが肌寒い日となりました。
今日のテーマは「老化」です。さて、どんな話が出たでしょうか。
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・年が行くと体の衰えを感じます。しかし精神は進化もあるだろうと言う心境です。
・体の衰えは見た目にもわかるので自覚もしやすいです。しかしそれでも他者からの目で見た場合と比べると老化の認識は甘いと思います。老化は他者の目がないと気が付きにくいのは守りに入るからではないでしょうか。
・体が衰えるのはそうですが、やはり精神や心も劣化すると思います。精神だけは進化もすると思えるのは危険な状態のように思います。
・年を取って、己の欲するところに従いて則を超えず、過ぎたるは猶及ばざるが如し、などの心境に至るのは進化だと思います。
・むしろ、それは成熟と言うものではないでしょうか。実が熟して落ちてしまう寸前の熟れた状態は、腐る一歩手前でもあり良いことなのかどうか分かりません。進化と言う言葉よりは相応しいように思います。
・若い人と話せるか?は老化を試すいい方法です。いつの間にかずれてしまっている、理解できにくくなっている、硬直した考えが残っていることなどに気付かせてくれます。ネットの使い方を見てもついていけなくなっています。これらは老化が劣化である、ということでしょう。
・同期会や同窓会など年が同じ人が集まると、年を取ったな、と思う人と若いな、と思う人の違いがはっきりします。
・それは人それぞれの過ごして来かたが影響しているのでしょう。例えば肉体的に重労働をしてきた人とそうでない人は違うでしょう。体質にもよります。精神活動の影響が一番大きいと思います。
・老化と高齢化はどう違うのでしょう。シルバーなどと言う言い方もありますね。
・昔、村長(むらおさ)などのコミュニティー内にいた老人は尊敬を集めていました。それは長生きすることが珍しかったこともあるでしょう。でも、尊敬を集めるのは色々な人を見てきているので、人間関係を調整する能力に長けているからでしょう。人間を理解しているとか洞察力があったりすることも関係していると思います。
・中年クライシスと言う言葉があります。青年期までは自分はひとかどの人物に成れると思ってきました。むしろ早く年を取りたいと思うこともあるようです。しかしどうやらそうでもないということが分かってくる。すると途端に自分にがっかりすると言う危機を迎えます。やがて安定して行きとどのつまりは自分の今を受容していきます。
・その年になって見ないとわからないことがあります。一つは積み重ね、生き方の蓄積でしょう。もう一つは社会の価値観の変化でしょう。「健康が良い」と思うのはバイアスがかかっています。この価値観など高齢者が増えマーケットが大きくなるにつれ発達してきた価値観です。
・尊敬を集める老人の洞察力とは、このような価値観の変化に翻弄されないということかもしれません。
・老化現象なのか、過去を振り返るような夢をよく見るようになってきました。なぜかと考えると老人には未来がない。過去を振り返って考えるしかない。だからこんな夢を見るのかと思うと、不安でしょうがない。
・70歳までは空を飛びまわる夢を見ていました。夢判断と言うものによるとそれは羽ばたくことで未来に向かっていこうとしていることだ、そうです。それを見なくなったのは老化と関係しているのかもしれません。
・物忘れはひどくなります。すると余計にはっきりわかる過去を振り返るようになるのかもしれません。
・老人になればなるほど時間の経過がはやく悔いが残らないようにと焦る思いがあります。
・10歳の子どもにとって過去は10年しかありませんが、70歳には7倍あります。その間に経験したすでに知っていること、分かっていることは顧みることがないでしょう。その結果70歳にとっての直近の10年は子どもの10年より短く早く感じるのだと思います。
・新鮮味がないことには興味はひかれません。逆に知っていることだと切り捨てずに別の見方の訓練をすると考えることで、老化現象の一つ、時間が経つのが早いは解消できるかもしれません。
・老化によって、①体力が衰える、②記憶力が衰える、③前頭葉機能が衰えるの3つがあるようです。③は例えば辛抱強く待つことが出来なくなってイライラしたりカッとしたりすることでしょう。
・それは、柔軟性が失われるということかもしれません。自分の価値観を相対化できるか、他人と自分が同じだと思い込み、周りに対し疑い深くなるか。ちょうどわかっていると分かっていると思い込む差でしょう。老人はめんどくさくなるとこの分かっていると思い込むほうへみんな放り込んで「わかっている」ことにしてしまいます。その結果、感動は減るし慣れが生じます。
・この、「分かっている思い込むほうへみんな放り込む」というのは、社会の変化があるのかもしれません。変化が多すぎていちいち吟味していられない。するとこの態度は便利です。でもこれはいわば「日本の老化」です。
・傾聴ボランティアをしています。人が話をする時、初めは警戒もするでしょう。そうしながら相手の反応に気づくことでコミュニケーションが成り立って行きます。 話の中には生い立ちやしんどかったことが現れてきます。言葉の使い方は慎重にしなくてはいけません。
・自分勝手な人は認知症になりやすいそうです。
・心身不二と言います。体の衰えは心の衰えにつながります。それは何か身体的にできなくなることが増えていくことから始まるようです。それが自信を無くすことや不安につながります。場合によってはここで周囲への疑いと言う行動、つまり他人のせいにすると楽だからではないでしょうか。
・これは認知症なのですが、この時周りの目が大事になるでしょう。
・老親を見守る子どもが、自己肯定感を高めるような接し方をすると不安が薄らぎ、他人のせいにすることが減っていくのではないでしょうか。
・老化がない、成長を続けるということはどういうことでしょうか。若者の出番が無くなるので良いとは思いません。老化がないと死もない。死は自殺しかありません。すべての人が尊厳死?をする、ということでしょうか。
・人は生れるのも死ぬもの自己決定権がありません。その自己決定権のなさ=身を任せると言う態度が心地よいと思います。
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日本の老化、と言う言葉に引っかかりました。会社の寿命は30年と書いた本がありました。国家にも寿命があっても不思議ではないように思います。国家の死とはなんでしょうか。
国家の老化とは何でしょうか。心身不二から考えて日本の老化と日本人の老化が影響しあっていることも不思議ではないように思います。
次回の<哲学カフェ@武庫東>は、11月21日(日)14-16時です。テーマは「心が柔軟とはどういうことか?」です。
- 2021/10/19(火) 18:39:37|
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第15回子どもの育ち哲学カフェ 2021年10月10日
テーマ「評価する/される」子育てをしていると、自分の理想の子育てと言うのがあったりします。それに照らして上手くいったら良かったと思い、上手くいかなかったら駄目だと思います。もう一人の自分が監視していて自分を評価しているような感じです。それによって自分を好きになれたり自分の長所だと思えたりすることがあります。子育ての原動力のように感じます。
その一方で、上手くいかずに子どもを怒ってしまい落ち込んでしまいます。そこで「もうええやんか」と言ってくれるさらにもう一人の自分もいて欲しいのですが、あんまり出て来てくれません。
このお話を受けて、問いを立ててみました。
問い「評価することは良いことか?」そもそも評価する/されることは必要なのでしょうか?
評価されるのは嫌な感じがします。他人がどう見ているのかを知ることは大事です。時には自分から求めて、他の人にどう思われているのか聞いてみることも大事です。しかし、それが評価、である必要はないでしょう。他に方法はあるのではないでしょうか。
最も身近なパートナーから評価されるのは、どうでしょうか? しばしばケンカのネタになったりもしますが、ここでプラスの評価だけを取り上げるのは良いかもしれません。
夫婦でケンカになったら、相手のいいところを20個挙げてプラスの評価をします。マイナスの評価は気にしないことで収まることもあるようです。
周りの評価を気にすることはあります。また、感情的に怒るというのは、手っ取り早く相手に伝える事ができるので、悪いことではないのではないでしょうか。この場合怒っているという認識があればある程度ブレーキが掛けられるので問題の拡大は防げるかもしれません。
評価と言うと学校のテストの点数のような一律的な評価を思い浮かべます。学校では良いのでしょうが、家ではこのような一律的な評価はしなくても良いのではないでしょうか。
仕事での評価は自分だけですみます。低い評価であっても愚痴ればよい。しかし子育ての場面では子どもの人格の形成に影響すると思うと責任があると思い、評価を余計に気にしていると思います。自分の期待や理想があってそこに近づくように日々していることを評価している。
評価はそれをした後が大事でしょう。評価(良かった、悪かった)で終わらず次にどうしようかと考えることがあれば、評価の目的にかなっていると思います。
褒める時には行為を対象にして人を対象にはしないことだと本で読んだことがあります。評価も人を対象にしたものではないのでしょう。しかしそのようになってしまうことはよくあることのようです。
評価をするのは大人だけではなく子ども同士でも行っています。評価されることが当たり前になっているのかもしれません。
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第一部で出た評価が性格を形成するかもしれないことや、評価している人をさらに評価するとはどういうことか、など新たな問いがでてきました。これらのなかから2番目の問いを決めました。
問い2「評価をどこまで採用するか?」評価は対象となるのが人なのか、範囲があるのか、何かに関してなのかと誰が評価するのか、どこまで評価するのか、ということの関連はどうなっているのでしょう。
評価を受けて、それを絶対だと思うのはどうしてでしょう。評価を選択することがあっても良いと思います。評価を気にしないことを選んでも誰にも迷惑が掛からなければ良いでしょう。
周りの評価を気にする/しないで言うと「母親に怒られたようには怒られたくない」と言う気持ちが強くあります。評価を気にするより評価される=怒られる、と自分の中で出来上がっているようです。
評価をする時、対象に自分の受けた評価を入れ込む(採用する)ことがあるようです。それは無自覚なバイアスとなっています。従って評価をする時は複数の人で行い、個々のバイアスをなくした「アセスメント」にするとよいと思います。
私とAさんとの関係はAさんとBさんやCさんとの関係とは異なるので、私のバイアスが入っていることは、それでよいと思います。
褒めて育てると言いますが、褒められずに育っても褒めて育てることはできます。逆に怒られずに育ったからと言って、怒らずに育てられるとは限らないようです。これらのことは家庭環境以外に、家庭以外での環境の影響が大事であるということだと思います。加えて自分の学びもあるでしょう。それには自分の成育環境を言語化することの役割が大きいと思います。
気持ち、とはオートマティック(全自動)で働くものです。落ち込んだりするものそのためですが、自分は尊重されているか、自分はこうありたい、ことを言語化して、それを基準に評価を受け入れるかどうか考えることで評価も役に立つのかもしれません。
評価する側の人が権威者であることは評価に影響するでしょう。その意味で評価は関係性の中で生まれるものです。多様な評価があっても良いのですが、学校の教室での評価が一面的なのは教育の機能とセットになっていることでしょう。
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一部二部ともご参加いただいた皆さま、長丁場をお疲れ様でした。
評価することをポジティブにとらえ続けることは大事だと感じました。成育環境によっては評価=ダメ出しとして押し付けられている場合もあるのではないでしょうか。評価の後に続くことがあってそれを大事にできることがポジティブでいられるポイントなのかもしれません。
次回は11月3日(水祝)です。テーマは「甘え」です。一部二部のいずれかのみご参加いただいても構いません。ご参加お待ちしております。
- 2021/10/12(火) 19:52:23|
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