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以心伝心心~あまがさき哲学カフェ~

哲学カフェに行ってみませんか。 お茶を飲みながら他の人の話を聞いてみる。結論は求めません。カフェで賑やかに話せればいいですね。

0190427【あまがさき哲学カフェ】5月の予定

【あまがさき哲学カフェ】 5月の予定

桜も終わり、新緑の季節を迎えました。皆さまいかがお過ごしでしょうか。

【あまがさき哲学カフェ】の5月の予定をお知らせします。いつものように哲学バーから始まります。

3日(金・祝)19:00-21:00   園田哲学バー    「あるはず」
12日(日)14:00-16:00     eカフェ        「Convinence」
18日(土)14:00-16:00     たちばな哲学カフェ 「知れば知るほど」
19日(日)14:00-16:00     哲学カフェ@東武庫「固定観念」
26日(日)13:30-17:00     シネマ哲学カフェ

いづれも予約不要。途中参加退場自由。どなたでもご参加いただけます。
お問い合わせは080-6144-7331 赤井までお気軽にどうぞ。



01905ポスター
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  1. 2019/04/27(土) 14:41:45|
  2. あまがさき哲学カフェの予定、案内
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0190405【園田哲学バー】のあとで

【園田哲学バー】2019/4/5 

普段哲学カフェが終わった後にいわゆる2次会が行われることがあります。私が自分で進行をする哲学カフェの後にこれらに参加することがほとんどありません。しかし、哲学バーは私が進行をしていないこともあり、参加者の方々とご一緒にお好み焼きなどをつつきながらしばし歓談します。

今日のテーマは「子ども」でした。哲学バーでは最高の17名にご参加いただきました。
なかなかとっつきにくいテーマだったようで、大人との関係や親との関係から子どもを考えて行きました。

さて、哲学バーの余韻を引きずりながらお好み焼きをつついていますと、子育てについて子どもとどう接するのかとか、「語りえないもの」としての子どもとか、子どもに言われて気が付くこととか、子ども同士の関係から子どもを見る、など哲学バーが再開されそうな感じです。やがて「子ども」の虐待についての話になりました。まず、自分たちの体験が3つ語られました。

1)虐待を受けた子どもは「虐待である」と自覚する前に、その虐待に適応する場合がありますが、しない場合もあるようです。適応した場合は成長してからもかなり長期間、場合によっては自分が老齢の域に近づくまで親から受けた虐待に気が付かないことがあるようです。

気が付きませんから「厳しい親やったなぁ」とか「嫌やったなぁ」とは思いますが、親子関係を根本から疑うようなことにはならないように思います。

2)命の危険にさらされるなどして保護された場合、教えらえて気が付くことがありますが、これが虐待にまつわるトラウマを生んでしまうようです。

3)適応しない場合、例えば親と衝突が続こうとも親に向かって自分の考えを表明し続けることができた場合(暴力には耐えられても黙っていることが耐えられない時に起こりうるようです)、次の行動を起こすことができるのかもしれません。例えば自立を探るとか、親子の縁を切るなどです。

哲学カフェやバーでは思いがけず話が展開し始めることがありますが、ここは「お好み焼き効果」もあったのかもしれません(もちろん、飲んでいます)。

次にこれらの経験を4人の参加者(4人掛けだったので)が共有するためにそれぞれがどういうことなのか、明確にしていきます。質問をして確かめたり、わかりやすいように言い換えたり、このような作業をしていると3つの経験に共通するキーワードとして「主体」と言う言葉が浮かんできました。

ここでの「主体」とは
1)ゆだねることもできるが、ゆだねてしまうとその人の行動が主体的ではなくなる。
2)ゆだねることは楽であり、面倒くささを回避できて安心安全を確保することができる。
3)ゆだねずに保持し続けることは「主体」のありようによっては他者から攻撃の対象となりえる。
4)「主体」は事実に忠実である、または信じていることに忠実である傾向がある。

ここで、改めてなぜ虐待がいけないのかと言う問いがたてられました。
子どもに限らず、理由が明確でないまま心身に重大な影響を及ぼす暴力を受け続けると心身への影響を軽減する行動を採用することがあるようです。
これは暴力への「適応」ですが、同時に主体をゆだねてしまうこととなり、やがて暴力を受けなければよい、あるいは罰せられなければよいと言う価値観を培うことになります。

このような適応状態のまま大人になると、
1)「罰を受けなければよい」「上司にやれと言われたからする」「悪いのはあなたであって私ではない」と言う態度につながるようです。
2)さらに、あたかも自分がゆだねた「主体」を取り戻すかのように、他者の主体を奪取するため暴力をふるう立場を望むようになることがあるかもしれません。

この答えを聞きながら、私は自分の過去の行動の一端がバシッと音を立ててはじけ飛ぶように感じました。

私はよく腹を立てていました。他者の主体を奪取するために。。。つまり、私は主体をゆだねてしまった者だったようです。「怒られなかったらいいや」という価値観は私の中でしっかり根をおろしていました。
私は虐待を受けていたと言うことよりも、それが自分の価値観に埋め込まれていたんだと言うことに気が付いたことがショックでした。

面白いと思うのは、私は妻や子どもに対しては腹が立たないことです。これはどういうことでしょうか。
すでに両親ともに鬼籍に入り、また虐待と思われる行為を受けたのもはるか昔のこととなり、ゆだねた主体が少しづつ戻って来たのでしょうか。
私の卑怯さやおどおどした態度や迷い、逡巡の一部は親との別れによって少しづつ様子を変えているようだ、と思います。と同時に、私にとって妻や子どもはゆだねた主体を取り戻す重要な力であるようです。

どんな縁と巡り会うかは大切だと思います。「縁を結ぶ」ことは主体を取り戻すことにも役に立つ。

「哲学お好み焼き」は1時間半ほどで終了しました。
次回のテーマは「あるはず」です。5月3日(金)19時~21時にある(・・)はず(・・)。。。
  1. 2019/04/06(土) 03:16:10|
  2. あまがさき哲学カフェ開催報告
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