第10回 哲学カフェ@武庫公民館「がまん」‘16/12/25
会場:尼崎市立武庫公民館 参加:11名
「がまん」をしたことがない人は少ないように思います。しかし何をどうがまんしたのか、という事は他人と共有されることは少ないのではないでしょうか。「えっ、そんなことをがまんしていたの?」と何かの拍子に気が付くことがあるように思います。
今年最後の哲学カフェに11名がお集まりいただきました。さてどんな展開になったでしょうか。
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◆がまんとは
・人の言うことをいやだけど受け入れること。やりたいことを押さえて他の事をすること。この二つに共通なのは「嫌だけど~する」と言う構造でしょうか。
・「いやだ」と言うのは感情でしょう。するとがまんとは感情を抑えることでしょうか。
・がまんに関係するのは感情だけではなく、例えばトイレをがまんする、と言うような場合もあると思います。この場合は肉体的生理的な事柄でしょう。
・がまんというのは「我を主張しない」ことではないでしょうか。
・他人から見えるがまんと言うものがあるとは言えないでしょうか。本人にはがまんしている自覚がないのに周りの人からはがまんしていると見えることはよくあるように思います。
・筋トレで負荷を増やしていくときにはかなりがまんが必要だと思います。
・後からあの時がまんしてよかった、ともうこともあると思います。このような場合がまんは宝物としてあるように思います。
・がまんは一つだけではなく、何かをがまんしたらそれにつられて他のものもがまんして更にがまんを重ねるという事があると思います。
◆なんのためにがまんするか
・がまんには入口と出口があると思います。入り口では「がまんだ!」と思ってがまんするのですが、出口では「いい経験やったなあ」と肯定的に思えるでしょう。
・自覚すると「がまん」となり、自覚しなくなると「がまんではなくなる」ようです。
・がまんとは沈黙することで、発展させる前段階としての「待ち」ではないでしょうか。
・何事でも始めるときはまず、がまんすることが必要だと思います。その意味でがまんしているのは準備の期間なのだと思います。
・がまんしたことで新しいことが体験できると、好きなことが増えていきます。すると新しい好きなことが我慢しなくてはならないことも起こり得るので、がまんの種類が増えると言えるのではないでしょうか。
・辛抱とがまんの違いは辛抱がそのまま押さえる、と言う感じがするのに対し、がまんには何か「期間」があってそこまでがまんという事が多いと思います。
・昔はがまんが身近にあったと思います。がまん大会とかやせがまんとかがありました。昔の人はがまん強いのでしょうか。その意味でがまんとは持続力のことかもしれません。
◆がまんできない、しないとは
・人には欲がありますが欲によって今まで知らなかったことを知ると更に知りたくなりそれで欲が増殖するとそれが快感で、コントロールできないのではないでしょうか。欲の増殖はがまんできないと言えると思います。
・欲を満たすかどうか、という事はがまんによってコントロールは可能だと思います。
・がまんできないときには、がまんするほかにごまかすと言う選択肢があるようです。
・がまんをしなくてよい、と言うのは多くの選択肢を持っていないために習慣化によってがまんすることが減るのだと思います。昔の人ががまん強かったのではなく、選択肢が少なく欲望を感じることが少ない状況に置かれていたからではないでしょうか。
◆他人や社会との関係
・封建社会に住んでいた人はがまんにがまんを重ねていたのではないでしょうか。
・その時代の人々には選択肢が少なかったと思うので、何かをがまんするという事は多くはなかったのではないでしょうか。そもそも自分の自由に選択することができなかったので。
・人間が社会的生物だからがまんもあるのだと思います。
・世代によってがまんの中身が変わってきているように思います。
◆石の上にも三年または乞食は三日すれば止められない
・がまんには「強いられる」「耐える」ことが付いて回るが、がまんしている間をどうしたらいいのでしょうか。
・石の上にも三年と言いますが、がまんを長くしていると石が温まって苦にならなくなると言うたとえです。徐々に慣れてきてがまんはがまんでなくなるという事でしょう。
・乞食は三日すれば止められないといいます。慣れてしまえば乞食の境遇も楽でよいう事ですが、がまんはしなくていいと言っているようにも思います。
・がまんのみかえりが何か、を知ることは大事だが、教えることは難しい。がまんのみかえりを何かを考えることは「理性」なのでしょう。
◆がまんと資本主義
・産業の発展方向を見るとがまんをしなくていいような方向へ発展してきているようです。
・資本主義の社会ではがまんは敵です。敵をやっつけることをあらゆる商品開発のコンセプトにしてきました。それらの中にはローンなどもあり如何にがまんをしなくていいかを競っています。
・資本主義社会では消費者はがまんが減りますが労働者のがまんが増えます。例えば宅配業者の再配達の手間などのように消費者の利便性が労働者のがまんと裏腹になっていると思います。
・モノの消費も限界が来ているので最近はがまんを遊ぶことやがまんをつくるようになってきていると思います。
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年末にもかかわらず11名と多くの方にご参加いただきありがとうございました。今年最後の哲学カフェを終了し、振り返りながらセッションの様子をお伝えします。
生活の中では「何々をがまんする」と言う文脈で語ることが多いため、がまんそのものについてこれはいったい何なのか、とは考えないものです。
がまんするために、がまんの意義を解き、納得するためにがまんの効能を語り、がまんの過ごし方などを語ることは多いでしょう。でも「がまん」とはそもそも何なのか。習慣化されていない何かを習慣化する過程のことでしょうか。挑戦することでしょうか。がまんづよいことは養成されるものなのか天賦の才なのでしょうか。
哲学カフェの場で話されたことを振り返ってみると、がまんについて考えるヒントが散らばっていることに気が付きます。板書した内容をまとめるのは改めて考えるヒントを発見することができるためでもあります。哲学カフェでのご自分の発言、気になった他の方の発言と併せて考えてみていただければ、がまんについてさらに深く掘れるように思います。
さて、むこのそう哲学カフェは来年1月から5年目に入るにあたり名称を「あまがさき哲学カフェ」に変更します。理由は活動範囲が私の住む武庫地区に限定されず拡大してきたことなどです。尼崎市全域で哲学カフェが活発に行われるように、誰でも気軽に参加でき、対等な関係で意見を述べ合えるような社会を目指しています。
ご参加いただいたすべての皆様、今年はお世話になりました。また来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
次回は2017(H29)年1月15日(日)14時~16時「癖(くせ)」です。
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- 2016/12/31(土) 17:14:09|
- あまがさき哲学カフェ開催報告
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