第十四回園田哲学バー 「あいまい」
2016(H28)年㋄6日(金)19:00-21:00 参加者11名
◆何があいまい?
・「あいまいな言葉」の例として最近若い人が使っている大丈夫です、と言ういい方が大変分かりにくい。必要なのか、必要でないのかとっさに判断つきかねます。これは言葉の使い方があいまいなのでしょうか。
・今の若いものに限らず、昔から「結構です」と言ういい方があいまです。電話による勧誘サービスでは「結構です」と言ったから承諾したことだと受け取られてトラブルが多発しました。
・言葉の使い方ではなく言葉そのものがあいまいだと思われるのが、「愛」とか「気」とかです。本来使われていた意味から勝手に意味が広がってありふれた言葉になってしまい、本来の意味で使おうと思っても話がかみ合いません。
・「あいまい」なことは便利です。理詰めではぎすぎすしてやりにくいと思いますのであいまいでいいと思います。
・「適当」とか「いい加減」と言うと否定的な感じですが、「適・当」「よい・加減」であればとてもいい言葉なはずなのにと思います。
◆あいまいは何をしている?
・あいまいにしておくことで時間を稼ぐことができます。すぐに判断しなくて済むようにしているのではないでしょうか。
・ごまかす、逃げ道を作る効果があって六割ははっきりしても四割を隠しておいていざとなったら逃げようしているのではないでしょうか。
・日本人にとってはいい感覚です。韓国ドラマを見ているとハッキリしているなあ、などと思います。
◆言語か国民性か
・言語そのものがあいまいさを持っている物でしょう。日本語があいまいなのかもしれません。
・言葉の表現であいまいさが決まるのだと思います。
・その言語を使うことで特定の国民性が生まれるのでしょうか。日本語を使っているのであいまいなのでしょうか。
・「絶対」と言うことはありえませんので、その意味ですべてはあいまいなものだと思います。
・「断る」ことの感覚は我々は「察する」ことを大事にして受け取る側か相手を見抜くことがとても大事にしていると思います。表現はあいまいでも察することでハッキリとはしているわけです。そこが日本社会の息苦しさに通じているのかもしれません。
・「断る」とけんかになるかもしれないので、逃げ場を作ろうとしてあいまいな言い方をして相手に察してもらう。このような態度は部外者からは分かりにくい態度です。
・「京の茶漬け」の話は有名ですが、京都の人たちの間では明確なのであって、京都以外の人には大変分かりにくいことになっています。
・天気予報は確率ですのであいまいとは違います。確率を上げる努力が必要とされています。一方、恋愛はあいまいだから良いのではないでしょうか。
・優劣を決めたがらないというのはあいまいにつながるのではないでしょうか。一時期小学校の運動会で1位2位を決めないようにしていました。これは平等悪だと言われたようですが、区別は差別を助長するという考えから区別することをやめるような動きがかつてありました。
・神のような絶対的な存在を持っている民族は格差があっても最終的に神の前に平等であることで格差に鈍感になっているように思います。
◆京都
・京都は盆地で周りを囲まれた地理的な条件から逃げ場がないため、その中にいる人々はけんかをせずに折り合いをつけていく技術を磨いてきました。京都が戦場となったのは応仁の乱が最後(1467~1477年)です。
・京都の文化の素晴らしさと同時に京都人の分かりにくさや他の地域との違いが強調されているようです。
・京都のそのような点を指摘することは京都が嫌いと言う態度につながっているようです。
・これらの話は京都が嫌いと言うことではありません。
◆同調圧力
・まとまりかけていることに反論したくない、と言う気持ちがあります。同調圧力と言うものかもしれません。
・自粛ムードと出る杭は打たれることと同じことかもしれません。
・出る杭を打つ方も、あいまいに打っているのではないでしょうか。
・伝える気持ちがないから黙ってゆだねている、吟味をしていないのが同調の中身かもしれません。
・あいまいとは優しさ、ふんわりとしていて四角四面ではないことでしょう。
・あいまいだ、と反論してもらわないとこまる。
・黙るということは同調していることでしょうか。物事の黒白は、それらの真ん中らへんに本当のことがあるのでしょうが、黒、白にしないといけないというと黙り込んでしまうのは、主体の存在が見えにくくあいまいに見えると思います。
同調圧力の正体は「僕は…」という一人称が後の説明になっていて、とても違和感があるのはなぜでしょうか。
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京都の話題になった際、ある方の質問に対してだれも答えない、という事態が生じました。はっきりとしてほしいと言う気持ちと、沈黙との間の断絶が「あいまい」を生んでいるようでした。質問者の再度の質問によって応答が始まりましたが、そのまま放置されると「あいまいなまま」と言う状態が固定してしまったかもしれません。
この点は進行役として不備があったのではないかと反省しています。参加者の皆さんへの質問であったことへの認識が足らなかったように思っています。反省するとともに参加者の皆様にお詫び申し上げます。
さて、次回は6月3日テーマは「共感」です。7月1日テーマは「風情」、8月5日テーマは「沈黙」の予定です。
- 2016/05/11(水) 22:12:34|
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2016(H28)年5月5日(日)14:00-16:00 場所:せいのお 参加:17名
テーマ「根拠のない自信」
連休期間中のむこのそう哲学カフェに過去最高の17名にお集まりいただきました。テーマが哲学ではないと言うご意見も出つつたくさんのご発言をいただきました。
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◆根拠
・根拠とは客観的データのことだと思いますので、根拠のない自信とはデータの裏付けのない自信と言うことでしょうか。例えばプロ野球のスタメン採用などもみんな数字の裏付けがあって、監督が自信をもってその試合に投入していると思います。
・客観的根拠とは別に、例えばプロポーズするときの自信は数字にあらわされる根拠がないように思われます。
・天気予報などは過去のデータをもって根拠としていますが、あくまで「予報」でしょう。
・馬券を買うときは新聞を買ってデータを分析して予想するのですが、当たってほしいという願望であって、どんなに「よし!」と思っても自信ではないと思います。
・飛行機が落ちるかもしれないはずなのに落ちないと思って乗っているのはどんな根拠に基づいているのでしょうか。日常生活は大半の人が自分は大丈夫と思って生活しているように思います。
・根拠は因果律に従っていて、論理的なものだと思います。自信の根拠ではなく、自信の理由と言う場合、その理由はいくらでも作られる、後付けできると思います。
・根拠は過去のデータであって、そこから分析された確率の高さのことでしょう。しかし他に、誰々が言っているからと言うもの時に自信の根拠にしていることがあるように思います。
◆自信
・全力を出し切れるという自信と、結果を出すという自信とは異なるように思います。いずれの場合も自信とは未来の事を保証しようとしているのではないでしょうか。
・自信とは、結果に向かってモティベーションを保つということではないでしょうか。
・自信とは、揺るぎのない平常心ではないでしょうか。結果が良くても悪くても。
・自信は自己肯定や自己受容から生まれるのではないでしょうか。経験による達成感の積み重ねや成功体験の繰り返しが必要なように思います。
◆自信をもって何をする?
・根拠のあるなしにかかわらず、何かをするにあたっては努力する場合から何もしない場合まで濃淡があります。
・ノイローゼの人が立ち直るのは達成感が生まれることで可能になるそうです。
・受験生が大学へ見学に行って大学へ進学した自分を想像すると、結構有効な励みになるようでそれが受験へのモティベーションになるようです。
・あるがままの自信、とは意志の強さの事ではないでしょうか。
◆根拠は邪魔
・自分では根拠があると思っても他人から見たら根拠のない自信、と見えることがあるでしょう。むやみに無理な挑戦をしているように見えることがあります。
・そのような挑戦をする本人にとっても根拠が邪魔になることがあると思います。自信の根拠とは経験だと思いますがやったことがない、だれもやっていないことを始めるときは絶対的な根拠はないし、主観的な自信だけが頼りと言うこともあると思います。
・何かやるときに運がいいと思うことがあると思います。
・普通はみな、根拠なく自信があるのではないでしょうか。根拠のない自信は生きる力であると思います。
・根拠を持ちたいというのは、不安があるからではないでしょうか。例えば、絵をかくのが好きな方にとっては、描きたいという衝動は自信とどうつながるか。自信とは別なことのように思います。
・直観力を信じて何かに取り組む場合、自信の根拠とは関係が生じないと思います。
◆根拠のある自信
・その人の自信が根拠あるものかどうかは他人に判断できないと思います。
・自信のあるなし、根拠の有無は自分でも判断できないのではないでしょうか。
・自信を持って臨むということはあると思います。その時はどこかで根拠に頼っていて例えば試験だったら、こんだけ勉強したからとか、過去問の傾向からなどが根拠となっているのでしょう。
・結婚式で自信満々に永遠の愛を誓う、その根拠は単なる思い込みかもしれません。
・高校野球で地方大会の経験者と甲子園へ出た経験者とでは何かが違うようです。甲子園へ出たということがその経験者にとっては自信の根拠となっているのでしょう。
・甲子園の例とも重なりますが他人に認められることが自信の根拠になるのではないでしょうか。
◆101回目の失敗
・100回目までは成功して、成功の積み重ねによって自信を持っていても101回目は失敗するかもしれません。
101回目も失敗させない自信と101回目が失敗しても大丈夫と言う自信があると思います。
・自分だけが正しいと思っていたり、本人も周りもとりあえず正しいと思っていると成功するか失敗するかは、その人のやり方で自信を育てることになるように思います。
・自信はそのものが邪魔だと思います。自信もなく根拠なくてもやってみろと言うのは、根拠ないがまずは始めて、その後の過程で自信の根拠を確かめていくのではないでしょうか。
・<無理かな、でもやってみよう>→<失敗!>→<経験>→<判断>→<意識に上らない自信>→オートマティックに働くようになり、根拠なしに行動できるのではないでしょうか。
・自信はどこかに預けましょう。自信は古い過去の経験によってできているものだと思うので、未来を見ることにしましょう。
◆集団における自信と根拠
・集団においては自信の根拠を共有できるでしょうか。例えば会社ならば業績の結果が将来の投資の根拠になるので、その意味では共有化できると思います。
・何かを行う場合一人の時とグループの時と、自信のあり方が異なるように思います。リーダーだけが自信満々と言うこともあるかもしれません。
・不安に押しつぶされないことが大切なのであって自信の根拠の有無は関係ないのかもしれません。
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「根拠のない自信」を話し合いながら徐々に浮かび上がってきたのは、自信に根拠は要らないのではないかということでした。日常生活における自信と言うものに一々根拠は必要がないようですし、何事かをするにあたって必要なものは自信ではなく、情熱やエネルギーのような不安を吹き飛ばすことなのかもしれません。
次回は6月26日(日)です。
- 2016/05/08(日) 17:13:50|
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