テーマ「シリーズ考えるを考える第4回〜自由に考えるとはどういうことか?」
2015(H27)年2月8日(日) 14:00-16:00 会場:カフェトレピエ 参加者11名
◆自由に考えるとは
・自由に考えるとは、言ってはいけない事がない、タブーがないことだと思います。そして自分の考えている事を外に出しても良い場でありたい。
・どれだけ自由に考える事が出来るか、疑わしく思います。内心だけで考えていても自由ではないように思います。
・自分の外に出して考えないと自由でないと思います。考えることそのものが内心だけ考えているのじゃないと思います。
・内心だけでもほんとに自由に考えていると言うこともあるのではないでしょうか。
・言語を使う以上、外に出して使わないといけない、ということでしょう。
・考える事ができること自体が自由であって縛られてないということでしょう。
・自由と言うものは制約がないと言う意味を持っていてある意味定義しようがないものです。定義しようとすると自由そのものが「〜からの自由」というものでしかないのではないでしょうか。
◆選択
・考えるということがまず自由に過去を思い出していくつかの選択肢からよりよい選択すると言うことではないでしょうか。
・すると選択肢がたくさんある大人はよいが、小中学生はよく考えられない、と言うことになります。
・過去を思い出す時ではなくて選択する事が自由だと思います。
・でも選択肢は限られている、と言う点からは自由とは言えないと思います。また仮に最良の方法を選ぶ事が出来たとしてもそれは自由ではない、と思います。
・選択というのは考えると言うより行動する時の話ではないかと思います。
・自由のレベルが関係しているのかと思います。選択肢の中から選ぶ自由、選択肢を用意する自由などのようにです。
◆内心・・・
・内心どれだけ自由に考えられるかと言う時には自由と言う言葉を良い意味に使っているように思います。
・人間は言語を使用して考えていますが自分の考えにぴったりする言葉を見つけるまで納得できないですね。
・ぴったり来る、納得できるというのは自由ですね。
・内心で考えている事を言語化できない事は自由ではないし、言語を通さないと制約を受けて自由ではない。
・表現する事は翻訳する事ですが言葉に直す際、変換の過程を経る事で失われるものがあります。そこに限界があると思います。
◆伝える
・直感やイメージを伝えるのは自由にできるだろうか。
・自分の思いがあれば自由なのでしょうか、伝える事と自由との関わりはどのようなものでしょう。
・言語があるから自由だし便利なのですが、その代わり言語に頼り過ぎているように思います。
・多角的に見える事が自由だと思います。
・普段、人間は考えないのじゃないかな。何事かに反応してオートマティック化している感じがします。そして何か特別な課題が見つかると、考え出す。課題に出くわした時に考える、考えられる事が自由じゃないかな。
・ゴッホのひまわりは、他の人からどう思われるかを考えて作っていない。そのような考え方があるので、それは自由だし伝える事を考えていなくても伝わると思います。
・論理的思考とは機械的でもあるでしょうが、そのように考える事には自由はないように思います。
・世の中には格差がどんどん広がり、解決できない問題になっています。たくさんの人が否定される生きづらい世の中になって来ましたが、そこでなぜか?ちょっとおかしいと考えられる自由があると思います。世の中の制限が取れるような感じです。
・考えない事も自由です。
・思いを巡らせる事が考える自由です。
・考えなくてはならない事があるときは、自由ではないですね。
・ひとりで頭の中で考える自由はあっても理解されない不自由さがあります。
・表現するとズレて伝わる、と言う不自由があるが、一方、発信した自由さはある
・「自由に考えられていない」と感じたことはありません。
・何か制約を感じると考え始めるような、壁にぶつかると自由を考え始める事があるように思います。
・ムスリム(イスラム教徒)の人たちを端から見ると彼らは不自由だろうなと感じます。しかし当人たちは、「これ以上考えるのは神のルール、異を唱える事ない。」として聖職者に聞きに行くと言う選択をします。
◆世間と自由
・日本では、世間から笑われるというプレッシャーがあり自由じゃない、と自由に感じられます。
・シネマ哲学カフェで話し合うと同じ作品を見ても見方が違います。自分では自由に考えられていると思っても一定の方向性で考えている事に気がつきます。一人で考えるのは自由でないと思います。場として考える自由があると思います。
・選択肢が広がる事は、考えるこことは違うと思います。
・葛藤しているという面がありますね。
・それは迷っているだけじゃないでしょうか。考えるつもりでも。
・自由奔放に考えるのが自由だと思います。
・でもそれは難しいのではないでしょうか。押し付けがましい例えばTVからの情報があって、結局考えを膨らませようと思っても限界があると思います。
・一人ではなくて、他の人とやったらどうか、と思います。
・常識的に考えると不自由だと感じます。それを脱すると初めて自由なるように思います。
・本当に解決したい課題があると、他の人の意見を聞くことになると思います。それによって自由に考えるようになると思います。
・解決できないと言うことは不自由なわけですね。自由に対してできないのだから。
・10人が10人の意見を持てれば自由なのでしょうか。
・自由に考える時、 1)何をテーマや課題として考えるか、と2)どのように文法的なルールで、または作文法のように考えるか、と二通りあると思います。
・社会的な自由には世間や規範が関係しています。一方言語的な自由には「考える事の構造」が関係しています。自由に考えるという場合に社会的なものからの自由と、言語的なものからの自由が考えられます。
・自由奔放に考える、と言うことができるのは、社会的な自由を得れば出来るでしょうが、言語的なものからは自由になれるのでしょうか。不自由であると言うことが前提になっています。
・言語的な自由に関しては言語以外で考えること、演劇やパフォーマンスの場合や、他者と考えることなどが関係あるのではないでしょうか。
********************
「シリーズ〜考えるを考える」も4回目を迎えました。
今回は自由に考えるとはどういうことか、と言う切り口で語り合い活発なご発言が続きました。終了後に寄せていただいた感想から抜粋します。
「言葉には形式という制約があり、これは確かに不自由ですが、この形式に従うと楽に自由に思考が展開すると思います。」
「〜からの自由」としか定義しようがない、と思われた自由ですが、「〜できない不自由故の自由」と言うものがあるのかもしれません。
次回は「さくらはなぜ、好まれるのか?」3月29日(日)の予定です。
- 2015/02/14(土) 22:20:01|
- 2015
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0