0140413第十六回むこのそう哲学カフェ「ほんものとにせもの」
日時:2014(H26)年4月13日(日) 14:30ー16:30 参加者数12名
ようやく暖かくなってきた日の午後、12名にお集まりいただきました。初参加の方が4名おられました。参加していただいた皆様、ありがとうございました。
ほんものという摑み所のないものに悪戦苦闘?ぎみでした。終わってみるとほんものとは絶対的な価値があるものと社会的に価値を付与されるものと両方あるように思います。ほんものの絶対的な価値には「美」の要素が不可欠なように思います。
>>>>>>>>>>>>>>>
◆音楽のほんものとにせもの
・佐村河内さんの音楽が本物なのかと考えますと「楽譜」は設計図に相当するもので、演奏とは別であるから演奏は本物と言えるでしょう。
・新垣さんの楽譜は本物なので、佐村河内がにせもので、音楽に本物もにせものもないという事でしょうか。
・今回のようにラベルが佐村河内さんから新垣さんに変わったとしても音楽そのものが本物であるかと思いますが、しかし聞いた経験によって異なってくると思います。
・小説などの作品でもアイデアは誰々、作は誰々などという事はよくあることで、にせものとは言わないと思います。
・騙す/騙される⇄本物/にせもの の間に重なる部分があるように思います。
◆騙すこととにせもの
・ニュースでは民に聞こえのいい事を伝えていると思います。福島の原発についても偽のインフォメーションを流しているではないですか。
・美術品の真贋などはこれに比べると罪がない。本物とにせものでは例えば強調のされ方などが異なっていて印象が違うものです。
・モノマネとは、本物の持っている特徴を極端に強調する事で成り立っています。これは偽物とわかっていて、モノマネをする人が自分のものにしていることで成立しています。
・本物にはほんものとしての目的、人に感動を与えるとか何事かを伝えるとか、を達するため役割があります。にせものはそれを欺くことだと思います。
・車でもカメラでもかつて日本は欧米のモノマネをし、今はアジア諸国が日本のモノマネをしています。工業製品はそのように発展、進歩していくものでもあると思います。
・製品に見いだす価値は主観的なものですが、日本製はいいと言う事が本物はいいと言う事と重なることがあるように思います。
・袴田事件のようにねつ造されたとされる証拠によって死刑判決を受けるなどという事は恐ろしい事です。
◆この人はほんものだ
・ほんものという言い方には、「この人はほんものだ」という言い方があります。これは人物を認めるという意味があり、その人が次々に創造していく力があるという事でしょう。
・しかし、その場合の基準は曖昧で漠然としたものだと思います。本物を見極める基準があるように思うのですが。その気持ちが例えば本物が見たい、知りたいという要求になって現れ、例えば「原画展」などに人気が集まる理由だと思います。
・本物/にせもの の価値は相対的です。ほんものには価値があると思います。あるいは、まねたものが本物になっていく事もあると思います。つまり場面が変われば価値も変わっていきます。
・自分探し、と言うものは本物の自分に出会う、という事ですがにせものの自分というのはおかしな考えですね。
◆真贋について
・ごく最近、坂本龍馬の手紙が発見されましたが、持ち主は全く気がついていない。しかるべき鑑定者が根拠を示しながら鑑定していく事で本物と判断されます。本物にはそのような価値があると思います。
・もひとつは、古いものには現在まで残っていたというその事だけでも価値があるように思います。
・自分の気持ちにも本物/にせものがあるように思います。時々自分の気持ちと違う事を言う事があります。あるいは後であれは自分の気持ちと違うと気がつく事もあります。にせものとわかったときの気持ち、疑いようのない時など場面によって随分変わってくると思います。
・物語は、真実である必要はないと思います。
・真偽そのものには価値はないと思います。
・贋作には価値がない。本物には多くの人に支持され歴史の中で評価され、価値を認められます。その価値は金額に換算されるので、本物は高い値段がつく。
◆ほんものを求める
・本物を求めるのはなぜでしょう。本物を求める気持ちには楽をしたい。安心したいという気持ちがあると思います。安全に快適に使用できて信頼できるものが本物であるという考えでしょうか。
・本物は技術がすばらしい。本物は努力を重ねた生き方の結果、価値あるものが生まれるということでしょう。
・天才は本物でしょうか。
>>>>>>>>>>>>>>>
次回のむこのそう哲学カフェは5月18日(日)テーマは「ふるさとは遠きにありて思うものか?」 です。
場所は 西富松会館 集会場 14:00−16:00
よろしくお願い申し上げます。
- 2014/04/19(土) 15:44:08|
- 2014
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
朗読+哲学カフェの試み『朗読からはじまる』は京都市下鴨にある(WEスペース下鴨)にて行いました。
2014(H26)4月6日(日)土手沿いの桜は散りかけ。風が寒いのが残念でしたが6名の方にお集まりいただき、しっとりした時間を過ごせました。みなさまありがとうございました。
小川洋子作「百科事典少女」朗読:西村存子
約30分の朗読に続いて、哲学カフェを行いました。
下記は私が取ったメモを元に備忘録的に綴ったものです。記録としては正確なものではありませんが、どのような話し合いであったか感じていただけたら幸いです。
また、朗読+哲学カフェについて、末尾に感想を掲載していますのであわせてご覧下さい。
>>>>>>>>>>>>>
◆Rちゃんとお父さん
・「百科事典少女」というタイトルから、主人公はリケ女なのかと思いました。この世を知り尽くそうとした子供Rちゃん。百科事典はRちゃんにとっては世界を知る手がかりだったのでしょう。
・父親の切なさを感じました。「ずっと送ることができなかった」のではないかと思います。
・大切な人を亡くしてずっと夢に出てきていたのにあるときぷっつりと夢に出なくなってきた、というようなことがあります。それは納得して送る、ということのように思います。
・親より子が先になくなる逆縁、その悲しさの大きさは大変なものです。それを乗り越えるには普通ではないことが必要なのだと思います。
・紳士おじさんはRちゃんの死後アーケードにすぐには現れず、半年後にきたことの意味はなんでしょう。狂気じみた不幸を感じます。せっかく子供とゆかりのある場所へ来ていながらRちゃんの人となりを話さない紳士おじさんの気持ちはどういうものだったのでしょう。
◆悼むこと
・死を悼むことだけではなく悲しみの深さには、悲しんでいたい気持ちがあるのでしょう。亡くなった人と触れあっていたいと望んでいるのだと思います。
・Rちゃんと父親の生前のつながりはどうだったのでしょう。幼い娘がアーケードで本を読んでいるのことを知っていたのかしら。
・Rちゃんが亡くなって初めて知る娘に出会ったのではないでしょうか。
・紳士おじさんにとっては百科事典を読み遂げるのが、Rちゃんのやり残したことを引き継いであげることになる。百科事典を書き写したノートをプレゼントというか仏前に供えているような気がします。志を遂げる、遂げさせるということでしょうか。
・紳士おじさんが小さなものを買う。立体的に娘と向き合うことができているように思います。
◆Rちゃん再び
・Rちゃんは好奇心旺盛な子だと思います。また、嘘の話が嫌いなのではない。子供のころ百科辞典を読んだ時のわくわくした感じはいいものでした。
・百科事典もフィクションなのに他の小説より好奇心を掻き立てられるのはなぜでしょう。Rちゃんは死期を知っていたのでしょうか。それで世界を知りたくて百科事典を読もうとしたのでしょうか。
・小児がんの子供が天使のような優しさや純粋さを持っていると言われますが、死を知っていることが関係していると思います。
・百科事典では「し」で始まる言葉の量が一番多いのでしょうが、作品ではそれを「死」と掛けているのかなと思いました。
◆声を聞く
・ヨーロッパには朗読の習慣があってみんなが静かに「声」を聞くという習慣があります。
・Rちゃんが犬のべべに読み聞かせています。べべは講義を聴いているようにRちゃんの朗読を聞いていました。昔は授業や講義では当たり前のことでしたが、静かに人の話を聞くことが今の社会では成立しがたいと思いました。
・今は山川出版社の日本史の教科書を朗読したCDなどがあるようです。
・夫婦善哉の朗読もCDがあって方言が使われているのは味があります。
・本を買って本棚に並べる、それは世界を選ぶことに通じでいるようです。そのよろこびで分かち合いたいと思い、そのことが声を出して聞かせる事につながっているように思います。
・昔、朗読教室に通っていましたが声に興味がありました。同じ小説でも解釈が加わって随分異なるものです。朗読家の長岡輝子は訛を取り入れていました。
◆場所
・読書休憩所という場所はどういう場所でしょうか。父が幼子を守るための場所でしたが、やがてそれが紳士おじさんを見守る場所になっていきました。
・そこの世界が伝わる、声で作り出す世界には、その人の生き様が出てしまうようです。引きずって来た人生が現れます。
◆朗読と哲学カフェ
・哲学カフェとしては違和感があります。原作を前もって読んでイメージを作ってきたのですが、感性と理性との違いというか、哲学カフェと異なるものがあると思います。
・朗読の後で対話会があるということでメモをとっている方がいる。というのは緊張しました。朗読が説明になっているのではないか、心配でした。
・朗読には、声を聞かせたいという思いと物語を共有する楽しさがあると思います。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
朗読の持つ力は意外に強い、と思いました。
朗読を一緒に聞く、経験を共有するということの意味は大きくみんなでひとつの物語に触れている、あちこち撫で回しているような親密感がありました。シネマカフェでも同様の感覚はありますが、ぐっと深くなってくる感じです。
これは予想外でした。共感する度合いが高まっていたような気がしますが、シネマカフェで見る事の多いドキュメンタリー映画と小説の違いなのかもしれません。また、アート+哲学カフェで感じたものとも違うものでした。
どのような作品が『朗読からはじまる』に向いているかはまだよくわかりませんが、朗読ができることが大切です。読み上げる事と朗読とは異なると思うからです。同じく本を素材として読書会がありますがそれとの違いを意識するとむしろ、朗読家の方がぜひ聞いてほしい、と思っておられる素材を「いただきます」というのがよいのではと思います。
始まったばかりの『朗読からはじまる』、次回も企画しますのでどうかよろしくお願い申し上げます。
- 2014/04/10(木) 23:36:29|
- 2014
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0