アート哲学カフェin大津 日時:2014(H26)2月23日15:00-17:00 場所:ギャルリーオー(大津市) ~彫刻(信ヶ原良和)とともに~ 冬晴れの日の午後、徐々に冷え込んでいく気温を感じながらアート哲学カフェに行ってきました。私には初めてのアート+哲学カフェでした。アートを前にどうすればいいのか、戸惑いながらの2時間でした。
◆はじまり
まず、作品を観なくてはならない。
そう思って会場に足を運ぶ。予想外の光景に少しの戸惑いがさざ波のように訪れる。
さざ波が去った後の束の間の平穏、そして哲学カフェが始まる。
始めのうちは感想を述べ合う。アート哲学カフェの不思議なところは自分の感じたことを研ぎ澄ませようとすること。他人の意見は、自分の感じたことを突き詰めようとさせてくれる応援歌みたいなものとなっている。
フロアに敷き詰められた円盤状の金属板。色合いから明らかに銅板と思われるものは小さく、ほんの少し混ざっている。
大半はシルバーに輝きはするがぼこぼこに叩かれた円盤。薄い板金。大きくても手のひらを開いたほどの大きさ。
円盤の一か所に切り込みがあり、それがホールのチーズケーキから初めの一切れを切り取ったように開いている。
その開いたところをすぼめるように円盤はごく浅い漏斗状になって、それが置かれている床に立体感をもたらしている。
◆造形
本物の睡蓮の葉は、切れ目はあるが立体的になるわけではない。必要がないからだ。
なぜ、この池の葉っぱは立体的にならなくてはいけないのかしら。主張したい、声を上げたいことが葉っぱにはあるようだ。
それが直径3mほどの円形に敷き詰められ、数か所にハスの実のようなものが立ち上がり、浮かんでいる。
ここは小さな池。ハスの葉っぱが占拠してしまい、水面が見えなくなった池。そこにハスの実を抱えているであろう台(うてな)と、大きな水草の葉が水面から立ち上がっている風景。
水が見えないはずなのに、ハスの葉っぱの叩かれた凹凸が水を想わせる。ハスの花ではなくて実を抱えた台が、その上面は一枚の板金であって、それは叩かれていない。
叩かれていはしないが、大きくひずんでいてそれが別の水面を想わせる。
金属板で植物を作る。色はない。金属板の表面の色はない。叩かれてぼこぼこになっていることで植物になってしまっている。強くそれを拒絶している自分を感じる。
何を拒絶したいのだろう。実物ではなく、このフロアに出現した池をか。池を出現させてしまったことをか。違和感は続く。
この違和感が消えるところを探すかのように作品を見ていると、とても穏やかな、それを見ているととてもなごむものが目に留まった。
それは池の面からほんの十センチほど立ち上がったところにある台であった。しっかりと重みをもった台のその上面はなだらかにひずんで照明の光を受けずに暗く静かにそっと佇んでいた。
◆ハスの葉の上、台(うてな)の平和
台の上面に水面があった。ハスの葉っぱに覆われて見えない池の水面がハスの台に現れている。金属の植物に違和感を与えていたハスの葉のあいだにひっそりと佇む台の確かさがあった。
叩かれた板金の表面が照明をはじいて”輝く”嘘っぽさの中に静かな台の確かさがあるようだ。
私が付けるこの作品の題名は「蓮の水面」である。
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2時間、一つの作品の前に留まって他の人の印象や話を聞いている体験は少々つらい、と感じました。
目の前の作品に気圧されていました。作品に違和感を持ち、作品に拒絶され、私は立ち去れと言われていたような居心地の悪さがかすかですが、確実にあったように思います。
私には現場から去った後に哲学カフェのあの場をもう一度再構成する作業が必要です。そうすることであの違和感がなんだったのか、本当は何を感じていたのかが感じられるようです。
もし、私があの作品に何かを添えるなら、小さなアマガエルを数匹添えたいと思いました。
END
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2014/02/23(日) 21:46:33 |
こんな哲学カフェに行ってきました
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第十四回:「怒りは 誰に向けられているのか?」 進行役 赤井 郁夫 日時:2014(H26)年2月15日(日)14:00-16:00 参加者:14名(男11名、女3名) 注:おこるといかるは、「怒る」と表記されるため文中ではかたかなで表記しています。 ◆イカルとき
・イカルときには、①.相手をコントロールしようとするとき(子供を叱っているときなど) ②.権利を脅かされているとき(国や自分より上位の者からの圧力に対する) ③.自分自身にイカルとき(自殺、リストカットなどの自傷行為に至ることもある)があると思います。
・イカルときは本来の相手でない相手に向かっていることがあります。例えば、学校の運動部のしごき。これは一種暴力であって先輩から受けたしごきであればイカルべきなのは先輩に対してなのに、これを後輩へ向けているのは一つの例でしょう。
・福島の原発で避難している人たちが避難先の住民たちといがみ合う。避難先の住民たちも実は被害者であり、被害者同志がいがみ合っていることになります。これも本来イカルべき相手はもっと大きな相手であるのに陰でほくそえんでいる誰かがいる、という事になっているのではないでしょうか。
・理不尽な扱いを受け、それを忘れずにいわばばねにして後で力を得て仕返しをする。ということはイカリが正しく?向かっているのでしょうか。
◆イカリを感じるとき
・弱い人に対して厳しい人を見ると、怒りを覚えます。しかし、冷静になると、その厳しくしている人も被害者だと思えてくる。目の前に人にイカルのではなく、そのバックグランドに目を向けて匿名的な社会に目を向けると、良心の呵責みたいな気持ちが起こり、矛先が鈍ります。
・誰にも向けられない怒りとはなんでしょう?
・高校生の時に知った木俣修の短歌が忘れられません。
「遮断機に堰かれゐるゆふべの群衆よなべて怒りもつごとき貌して」 木俣 修
昭和21年の短歌に戦後の混沌の中の人々のどこにも向けられないイカリを感じてとても印象に残っています。
・イカリと言うものは人に向かうのでしょうか。自分に向かうのでしょうか。それよりもイカルための理由があるのではないでしょうか。「みんながみんな、イカレるのか?」と思います。世の中へのイカリや、持っていき場のないイカリというのは例えば昨今、就活で30社受けても就職できない。と言う社会の在り方はおかしい、変だと思うそのイカリはどこへ向かうのでしょう。
・イカリは自分より弱いものへ向かうと思います。強い人へ向かうのは自分を危険にさらすことになりますからそんなことはしません。
・イカルとオコルはどう違うのでしょうか。
・突然キレる人が多いように思いますが、このキレるというのは人に対してイカっているのでしょうか、それとも復讐?のようなものでしょうか。
・イカリを感じることと、イカリを出すことの違いがあるのではないでしょうか。イカリを出すことを制御できるでしょうか。もしできたらそれは打算でしょうか。
・どんな行動に目的があると思います。イカリにはパワーがあります。そのパワーがプラスになればいいが、そうでない場合は困ったことになります。そのようなよくない、マイナスの感情をどうしたら収まるかが問題だと思います。
・イカリは感情ですが、感情には演じられる感情もあると思います。例えば、会社で上司から言われ反発して頑張る、と言う場合ではイカリを利用している訳です。
・イカリは情緒的なものでしょうか。理性的なものでしょうか。イカリは完全に情緒と言い切れるでしょうか。
・例えばアラブの春と言われる社会運動は崇高な理念からのイカリや、不平等をじかに感じている個人がイカリを持つところから始まりましたが、メカニズムは同じだと思います。
・イカリが社会運動になるには個人が怒っているときと動機が異なると思います。イカルという現象には、理不尽を感じる⇒感情を載せるという二段階があると思います。
◆いじめとイカリ
・いじめはイカリではなく、暴力です。
・いじめる側にも理由があると思います。
・イカリは感情が載っているのでイカリを向けられた相手は受け流すしかありません。
・イカリを持っている存在を受けとめず無碍にしないでしっかり受け止めてほしい。
・受け流すというやり方は一つの方法ではあります。しかし実際には「勝負」で決めようとすると、イカリが多くなると思います。つまり、イカリを感じることの前に理不尽があって、それに感情が加わると、イカリと言う感情が生まれると思います。
・他人からイカリを自分に向けられているとき、相手は「かなしい」のではないかと思います。悲しさをストレートに言えなくて形を変えてアピールしている。そのように思うとこちらも冷静になれように思います。
・イカリをだれも受け止めてくれず、結果イカリを向ける対象が正しくなくてもイカリは止まらないでしょう。イカリはその原因をわかってくれたら収まるものです。
・イカリを受け止めるということは無視することではありません。イカリはもっともだ。わかる、と相手の立場を理解しそれでも自分の立場を言う。これが相手のイカリの受け止め方ではないかと思います。
・イカリの理由を誰かが理解してくれたら、終わりでしょうか?少なくとも理解することで理解した側の行為が変化する必要があるのではないでしょうか。
◆イカリと社会
・イカリと聞いてそれは義憤だと思いました。正しいことが行われていないことへのイカリ。これこそがイカリと言うものだと思います。
・義憤とは違うイカリがあると思います。例えば逆らえないものに対する不安、弱い人に対する不当は扱いに対してイカリたい。接しても相手は逆らえない実態があると、義憤が起きにくいのではないでしょう。
・子どもを叱る感じはイカリとは実は違うのではないかと思います。イカリとオコルの差はあると思います。
・子どもの世界は言わば本能+感情の世界です。大人になってそれに理性が加わるのですが、イカリの場合、どうも戻ってしまうようです。
・立てこもりなどの犯罪者を説得するネゴシエーターはイカリを持つであろう対象者相手に話を聞く、イカリの対処法は別にあるように思います。
・イカリのうち、国家に対するイカリはどうでしょう。これは義憤というべきものでしょう。他とでは昨今の非正規雇用にみられるような社会的不公平の問題が大きくなって非正規で働く若者を見ていると、世の中がおかしいと思う。
・国家に対するイカリと言う点では、14歳の時に経験した神戸大空襲の時の頭の芯が震えるようなイカリ、イカリ心頭に発する体験は忘れがたくあります。焼け落ちる友人の家やたくさんの人が死ぬのを目の当たりにしながら湧き上がった「大人は何をしているのだ!」というイカリは忘れることができません。
◆なぜイカルのか
・イカルことは悪いことではないと思います。人類の根幹に関係するイカリは、公正を求め不平等を糺すことだと思います。
・犬が腹を立てて吠えるように、イカリは動物的なモノではないかと思う。
・大災害ではイカル対象はあるのだろうか。東北大震災の津波被害で海にイカリをぶつけるということはどのようにあったのでしょう。震災などの天災はただ、受け入れるしかないのではないでしょうか。
・東北大震災の時、ボランティアで被災者の相談を受けていました。電話を受けていてよく言われたのが「東京にいてぬくぬくとしている人にはわからない」ということでした。どうすることもできないことでした。
・子どもを叱ってしまう時、子どもに対するイカリは自分に不安があってそれを解消しようとしているのではないかなと思います。このような場合、子供を信頼することができればそのイカリは解消すると思います。
・イカリが復讐やテロに結び付くのは弱いものが強いものに対する手段だと思われているからでしょう。
・上田紀行の「ダライラマ14世の対話」を読んで思うのは、仏教ではイカリは善くないことであると言われていますが、ならば不公平にイカリを覚えるのはいけないことになります。人間の慈悲から来るイカリ、弱い立場への共感、しかしこれも私的なことではないかと考えると、そのような怒りをエネルギーにして行くのは正当なイカリなのでしょうか。
・よりよいイカリと悪いイカリがあることを肯定するのでしょうか、復讐を肯定するのでしょうか?
・中世の王政の時代、統治を押し通そうとする勢力に対し、「正義の具現」なのか復習や怨念なのか、イカリを武器にしてフランス革命やロシア革命などの民衆の蜂起によって時代が大きく動きました。おそらく、圧政に対する反感とそれが共感を得て広がり、それがイカリを呼んで行ったように思います。
◆正しいイカリ、間違ったイカリ
・間違ったイカリとはどのようなモノでしょうか。うぬぼれている相手に対するイカリやテロは、弱い民衆の最終手段としてしょうがないのでしょうか。民族的な人権や不平等に抗議することはイカルことではないのでしょうか。
・イカリと言うものは、人類が長い間受け継いできた人類の機能だと思います。その意味でイカリは個人ではなく、共通するイカリなのだと思います。
・圧迫された民族が自分の生活に閉じ込められ、圧迫されるような貧困にあえぐとき、テロの要因になります。それは援助によって救われるものでしょうか。イカリは収まるものでしょうか。
・イカリは作られるものだと思います。国際関係でも作られています。本当は、良くも悪くもないことだけがあるのでしょう。この世にあるのは解釈だけだと思います。そうすると、イカリだけではなく感情は個人的なモノではないと思います。
・イカリは、個人的な感情の集積なのかもしれません。それによって個人の感情は操作され、つくられることはありますが、感情は自分の固有の物であって、それで他の人や社会を先導しているという実感はありません。
・イカリは突き詰めていけばやはり個人の感情でしょう。
・イカリを考えて、突き詰めるとイカリはなくなると思います。イカリは作られますが、イカっていることを探究してピンと来て何かを実感することを通してイカっていた事柄を受け入れられます。そうすると、イカリは無くなるのではないでしょうか。イカリに良い悪いはないのだと思います。その意味でしっかり考えたら良い悪いはないことが分かってイカリは減少しますし、原因を整理して落ち着くと思います。
・誰かが自分にイカリを向けたら、イカリは生じるものであって正当性はそれなりに成り立つし、しょうがないと思うでしょう。
・神にイカルことがあってもいいし、因果律にイカルことや世界にイカルことがある一方、横の人にイカルと言うこともあると思います。
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沢山の方にお集まりいただきました。とても深いテーマでした。個人的なイカリは、それをばねに変えて飛躍できるし、社会的な運動の原動力もイカリではあるようです。
しかし、イカリは暴力であり、キレているだけではどうにもならない、ということもわかりました。個々のことは個人レベルで解消できても大きなレベルとなると工夫が必要なようです。
次回は3月16日(日)14:00-16:00テーマ「結婚のメリットデメリット」です。
場所は尼崎市女性センター1階カフェ・トレピエです。
なお、3月9日(日)14:00-16:00は、eカフェ「Which kind of animals can we eat?」です。
場所は伊丹市野間にあるアイデアル英会話教室です。
また、開催を延期しましたシネマカフェ「精神」は、3月21日(金・祝)に14:00-17:30です。
場所は西富松会館集会場です。
2014/02/23(日) 00:17:53 |
2014
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