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以心伝心心~あまがさき哲学カフェ~

哲学カフェに行ってみませんか。 お茶を飲みながら他の人の話を聞いてみる。結論は求めません。カフェで賑やかに話せればいいですね。

130522第五回むこのそう哲学カフェ 開催報告

第五回むこのそう哲学カフェ開催報告

                                       むこのそう哲学カフェ 運営進行役 赤井 郁夫

むこのそう哲学カフェ第五回目は平成25年5月19日(日)の午後、あいにく降り出した雨の中を7名の方々にお集まりいただきました。会場は尼崎市立西富松会館の集会場でした。毎回ポスターなどを見て新たに参加してくださる方がいて、うれしい限りです。

日   時 :   平成25年5月19日(日) 14:00-16:00
参 加 者 :   7名(男4名、女3名)
年   代 :   30代1名 40代2名 50代1名 60代3名
テ ー マ :   「我を忘れる、そのとき私は何を忘れるの?」

前回は「あなたはだれ?」と「あなた」に問いかけるテーマでした。今回は自分、しかも忘れてしまう自分について考えてみました。皆さんの経験を糸口にぐいぐいと入り込んで行き何かとても深い、普段考えつくことのない世界の表情を垣間見たように思います。

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◆私が経験した「我を忘れる」
・座禅や瞑想などは一種の「我を忘れる」ことでしょう。
・何かに集中する、夢中になると時間を忘れます。勉強でも夢中になると4時間5時間あっという間と言う経験があります。またものすごい集中力のある人は普通では考えられないことを成し遂げてしまうもので、昔、ある中学一年生が1年間で数Ⅲ(高校3年レベル)までの参考書をやってしまい驚いたことがあります。
・集中するということは、対象と一体になることではないでしょうか。数学の問題と一体になるとか、意識を集中させて空の景色と一体になって遊離体験をしたことのある人の話では、その時その人は非常に自由な感じがしてどこへでも行けるように感じていたそうです。ある時このまま戻れなくなったらどうしよう、と怖さを感じてそれ以来自分で遊離することを止めたそうです。
・喫茶店で待ち合わせをして本を夢中で読んでいたら、後から来た相手の目に入らないことがあって自分の気配が消えていたような経験をしました。
・集中できないときは、仕事や目の前のことに一生懸命やっていると、集中できます。
・絵を描くとき、パッと何かが入ってくる瞬間があります。それを「右手に神様が下りてくる」と表現していますが、数時間があっという間に経ってしまい、出来上がった作品はすばらしく良く出来ていて自分が描いたとは思えないことがあります。このようなことはめったにないことですが、その時は何か遊んでいるようなとても楽しい時間です。
・逆に、いい絵を描かなくてはなどと周りの評価が気になる時はスランプになります。普段の私は自分を守ろうとしているのですがその自分が評価を気にする自分、嘘の自分なのではないかと思います。
・一人の自分がもう一人の自分を判断していると思います。無意識の行動とそれを評価している自分がいて我を忘れるときは評価している自分が無くなる?のではないでしょうか。
・今までの経験のお話では、テーマの受け止め方がプラスのイメージですが、思わずとってしまった行動、後でちょっとまずかったかなどと思えてしまう行動もあります。
・子供のけんかを止めた時のことを思い出すと、いいかわるいか判断している間がなくて更に周囲の他の関係者を気にしている自分も出ることがなく、縛りが取れて素の自分が、感情のまま出ている気がします。


◆そのとき、何が起こっているのでしょう。
・子どもが喧嘩しているのにも2パターンあります。喧嘩している当事者が怒りに全身任せるようなときと、ちゃんと様子を見ながら喧嘩しているときもあります。人は「こいつは甘いな」とか「きついな」とか絶えず周りを判断しているでしょう。
・幼いころは「自我」が働きません。子どもは幼い時はいつも我を忘れて生きているのが、大人には特有の「自我」が働いています。
・後から感情のままだったな、とかまずかったかなと思うことはありますが、しかしその時は日常の煩わしさをわすれている=しばりからのがれていると感じます。
・幼い子供が絵を描く時、太陽の形や色は大人が教えてくれます。それは丸くて赤い太陽ですが、自分が感じた「青い」太陽を描く自分は<修正>されなくてはなりませんでした。大人になってやっぱり自分の感じた太陽を描いてそれが、真っ青な太陽が、自分にピッタリならとてもうれしい。
・子供は小学生になって「文化の場」にさらされます。例えば虫に対する価値観、自分は虫を殺すことは可哀そうでできなかったのに、他の子供は当然のように虫を殺して遊ぶ。そのことにショックを受け、自分の世界が壊されます。そのような経験を積んで自分を修正していくのでしょう。思春期は自分の世界と社会との間を揺らぐごとで選択しているのではないでしょうか。


◆自我と自己
・思春期は自我の形成期です。それまでの子供のころは自分のことしか考えない、自我がない状態ですが、自我は後天的に習得されてそれが抑圧を生みます。
・「自我」はどういう風に思うのでしょうか。
・自我の定義が問題になりますが、自己と自我に分かれていて自我は自己の監視役としての文化的な抑圧を担っています。


◆では、なぜ「自我」は引っ込むのでしょう?
・子どもの頃、大人に青の太陽はおかしいよと言われ、社会的に生きていく、つまり学習することで丸くて赤い太陽と言うものを受け入れてきたと思います。その後、昔の私の感覚を「とりもどす」、私の感じていることを責任を持って私が表現する。それが「自分でいる」時だと感じます。
・ジャイアンツの長嶋茂雄が調子の良い時には「ボールが止まって見える」と言っていました。これは想像ですが、打ってやろうと考えていたのでは間に合わないので、考えていないでしょう。そこが天才なのでしょう、ボールと一体になっている。没頭しているというか、馬鹿力が出るというか、そのようなことになっているのではないでしょうか。
・脳科学者の茂木健一郎は、「自分と対象とに壁があるときはうまくいかない」と言っていました。
・なにか突破する、自分が消える瞬間があるのでしょう。独楽が勢いよく回転しているときは却って止まって見えますが勢いが落ちてくると揺らぐ、対象と一体になれなくなります。ちょうど余計なことを考えて揺れているように。
・人間の行動には命令なしに反射的に行動することや、感情によって行動することがあります。理性とは反対のことですが、それを訓練することが社会化や自我の形成ではないでしょうか。


◆守破離(しゅはり)
・守破離と言う言葉があります。これは、世阿弥の言葉だそうですが、物事を極めるためにはまずトレーニングを積みルールを身に付け培われていくもの(左脳の働き)があります。それは修業であって一生懸命しなくてはならないのですが、そのままではだめです。本番のときには右脳を働かせて、「名人の状態」に至る。この過程を表した言葉です。
・守破離の「離」の段階、このことが我を忘れる状態を表していると思います。
・小さい子がなにか一生懸命にやっているときや、ぼっとしているときというのは、「ひらめき境地」にあるのかもしれません。
・「離」の段階では、普段の自分を違うように思います。太陽を青と思っていた自分は、我を忘れているのですが、無意識ではありません。
・逆に、子供が社会化され、大多数の中に入いることで「安心する」、これも我を忘れことではないかと思います。
・子どもはいつも我を忘れています。でもその時大人のように自我を忘れるだけではなく、親の言いつけや意見を自覚を持って受け入れているときもあると思います。
・我を忘れた時に2パターンあるようで、我を忘れて得ることがプラスに働くときと、「あっしまった、感情的になってしまった」と思う時があります。では、我の「いい忘れ方」はないでしょうか。


◆我のいい忘れ方
・震災の時など生きるか死ぬかの体験を共にした時、我を忘れて本音が出ることがあります。
・本音、本性、など我を忘れた時の行動は、どちらかと言うと正しい、あるいはよいことが多いと思います。我を忘れた時、自分を知る、素の自分を知るように思います。
・例えば子どもが母親を家で待っているとします。そこに母が疲れて帰ってきて、疲れでイライラして猫を怒る。それを見た子供は「こういう時には怒るのだ」と理解してしまいます。それで自分も真似をしてそのような行動に出ると、他の大人になぜか怒られます。すると子供は迷いながら自分の行為を反省するのですが、そのように言われたことは子供にとっては大きなイベントなのです。
・大人は抑圧されています。「絶対あかん」ことはあかんのですが、我を忘れた状態は心地よい。逃げているともいえるのではないでしょうか。
・大人が意識せずに我を忘れるのではなく、意識して我を忘れることがあると思います。例えばパチンコ依存症や薬物依存などは、意識して心地よさを求めて、没頭できるものに逃げているともいえるのではないでしょうか。
・母親同士で子供を暗くなるまで遊ばせながら、話をしているととても楽しい。主婦としてするべきことや嫌なことを忘れて、意識的に心地よさに逃れているように思います。
・我を忘れて秀でた何かをする、守破離によって達する境地の他に、我を忘れた状態というのは結構マジョリティーで、多くあるのではないでしょうか。


◆我を忘れても、我はここにいる…
・絵を描いていると苦しくて孤独と焦りの地獄を経験するのですが、ある瞬間、自分と中心が繋がる感じがします。その時は何か自分が責任を持って出すのだ、認めてもらえないか認めてもらえるかを私は引き受ける、という風に感じています。
・自分と我を忘れている状態は、リフレッシュ感があって満足しています。
・我を忘れている状態は、自我が無くなっているのではなく、自我がサポートしているような、自己と自我が親子関係のように信頼感でつながっている、そのような状態だと思います。
・我を忘れている状態についての説明は、後から出た理性ではないでしょうか。我を忘れることをどう定義するかということではないでしょうか。
・我を忘れるとは現実逃避かもしれません。
・集中しているとき、我を忘れることができますが、そのためには一つのことを続けることで集中することができます。ともすると色々理由をつけて始めないことが多いですが、とにかく始めること、始めれば集中力は高まります。そうすると集中して我を忘れられます。
・ゴッホはひまわりを描いたとき、ひまわりを描こうとしたのではないと思います。ひまわりがあまりに生き生きと生きていることの素晴らしさを表していたので、それを表現したかった。生きているすばらしさを表現したかったと思います。そう思って描いているうちに我を忘れ気が付いたら描けた、自我を忘れたのだろうとおもいます。
・自己が自我の殻を破って出る、その在り方が個性ではないかと思います。


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いつものようにメモを手掛かりに話し合われた内容をまとめました。うまく再現できていないところやわかりやすくしようとして文脈の前後が入れ替わっているところなど、不十分な記録になっているところがあります。文責はすべて私にあります。

さて、まず皆さんが経験された「我を忘れた」ことを観察することから始まりました。すると我を忘れるという状態は一つや二つではなく、また良くもあるし悪いとも思われるケースもあって入り混じっていることが判りました。
我を忘れている本人の状態だけではなく、周りの人との関係や影響へも話が広がって、意外によく起きている現象ではないか、と思われました。
一方、普段の自分と我を忘れた時の自分と、二人の自分があることは共通しているようでした。そこから、「望ましい我の忘れ方はあるか」という新たな問いが出ると、物事を始めることの大切さと、その修業がいつか「離」の状態に至れば、望ましい我の忘れ方となるという示唆を得られたと思います。

我を忘れるとき、普段私を守るため体面を重視することを思い出させ、他人との関係性に配慮して気を配ることを忘れず、いい評価が得られるよう我慢もし、そのように私を管理監督しているわたしが、ふと、私がやりたいことをやれるようにサポートする、安心してやりなさい。大丈夫だから、と言っているわたしになっている。私はそれに支えられ、思う存分自由になれる、そのような我の忘れ方なら、確かに最高です。

具体的で丁寧にそれぞれの体験をお話しいただいたこと、それが深いところへの道を開いたように思いました。皆さんと行きつ戻りつほぐすように話が進み、とても一人では考えることはできません。哲学カフェの面白さを改めて感じました。


さて、次回は平成25年6月16日(日)14:00-16:00の予定で「せいのお」で行います。
テーマは「デジタル技術によって人は生きやすくなったか」です。
ではまた。

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  1. 2013/05/23(木) 00:32:40|
  2. 2013
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