12/9/30
哲学カフェ:「理不尽をどうとらえるか」
哲学カフェは考えを深めるうえでとても刺激になる。おそらく一人では堂々巡りで深まることのないことでも、意見を聞き、切り口を変え、つなぎ合わせてみることで意外なところへたどり着く。
それは意図した到達点ではない。着いてみたら新たな展望が広がっているのを目の当たりにしている、と言う感覚かもしれない。
さて、2012年9月30日の哲学カフェのテーマは「理不尽をどうとらえるか」。カフェの到達地点は私にとってはどのようなものだっただろうか。
*********「カフェにて」**********
カフェではまず、「理不尽」は「不愉快」とセットだ、と言う指摘から始まった。「理不尽」と言う言葉は普段あまり使わない。無茶なことを言われて、「殺生やないか」と言うことがあるが、これに近い。など、テーマについて感じたことを述べ合うことから始まった。
裁判で負けた側が「理不尽で不当な判決だ。と言うことがある」と事例が挙げられた。そこから「理不尽」には立場の異なる人たちが関与しているという話が出た。他の事例としてリストラの場合、会社側の人は会社の論理に従っている。リストラの対象者は一方的に抵抗できない立場にいて理不尽さを、感じるのではないか。
また、字義の解釈として、「ことわり」とは何を指すか、と言う問題が提起された。それは人間が作ったものであると言う答えに始まり、事実、真実、正義などがあげられた。
ここで芥川龍之介の小説「藪の中」に言及する人がいた。
その一方で普遍的なあるいは客観的な価値なのか、主観的な価値なのか、という問いも絡んできた。
これらの議論の中で、「道理」という言葉がある特定のコミュニティーで共有されている価値を表している言葉として、この「ことわり」を表わす表現ではないか。という意見が出てきた。
コミュニティーで共有している価値はしかし、共有しているハズの価値であり、思い込みの場合もあって、それを「屁理屈」と言うのだと言う意見が出た。
理不尽に対して「理を尽くす」ことにも話が及び、納得するかしないかがポイントだという指摘が出た。すると、納得させる努力を尽くすことも理を尽くすことであり、理不尽にはこのような真摯な態度が欠けていることがあるのではないか。と意見が出た。
理不尽とは感情であると言う意見が出た。それを補足するように、まず違和感を覚えそれを考えるうちに「理不尽」と言う感情が湧くと言う意見が出た。さらに、自分を守るため、自分の不具合を正当化するため、後から考えて「理不尽だ」と言うのだ、と言う意見が出た。
すると今度は、理不尽とは悪いことなのか、ネガティブにしかとらえられないことか、と言う問いかけが出た。
それに対し、道理を尽くしても正義に至るとは限らない。「理詰め」で説明されることで納得できるとは限らない。むしろ、理不尽さを転換することを考えたいという意見が出た。
圧倒的な理不尽さの中で生き抜いた人たち、例えばアウシュビッツやアメリカの黒人の例が出され、理不尽さに押しつぶされそうになりながら耐え抜いたこと、これが正義にも繋がると言う人がいた。アウシュビッツの例ではフランクルの著作「夜と霧」にも話が及んだ。
地震、津波などの自然災害で被災した場合、理不尽な思いをするだろうか、と言う問いが出た。これに対し、そこに例えば、被害を避けるための努力を怠った人的な要素が絡めば、理不尽な思いをする人も出てくるだろう。理不尽と言う場合にはあくまでそこに人が絡んでいるという意見が出た。
抽象的なテーマであったためか、話があちこちに飛び互いの関連が分かりにくく、進行役が発言の要点をまとめながら進んだが、大変だったのではないかと思う。
テーマを広く薄くカバーしたように思うが、そのおかげで「理不尽な思い」に取り付く島のなさを感じていた私には視界が開けたと感じられた。
さて、哲学カフェにはそれが終わった後があって、いろんなことを考え始める。以下は「カフェの後」のことである。
*********「カフェの後」********
「理不尽な思い」は弱者、被支配者、下層(以下フォロアー)の思いである。強者、支配者、上層(以下リーダー)に対する抵抗の意志のようなものではないか。
多くのコミュニティーにはリーダーとフォロアーがおり、所属員全員が共有する価値・道理が存在している。
それが破られ逸脱したとみなされる場合、フォロアーは叱責され処罰を受ける。これはフォロアーがコミュニティー内にとどまることを担保しつつ、コミュニティーの安定を確保する行動である。
リーダーはそのコミュニティーの価値を代表し体現しているため、コミュニティーの安定を図る行為としてフォロアーによる逸脱を監視し、是正しようとする。
しかしリーダー自身が逸脱行為をした場合、最終的には不信任を受けるにしてもフォロアーと違い、都度何らかの制裁を受けるわけではない。
そこでリーダーに対する抵抗の意志を表明する場面が発生しうる。
理不尽な思いは、コミュニティーが共有している価値観に照らして、いかなる理由、経緯、判断において受け入れられない様な決定に対し、徹底的な説明を求めるフォロアーの、コミュニティーとその価値を守ろうとする意思の表れともとれる。
理不尽な思いを感じる時が多いということは、まず、価値観が共有できているのか、道理が共有されているか検討するとよいだろう。すべての成員に全ての価値観が共有できていることはないだろう。必ず、ズレがあるものだが、ひょっとするとそのズレは許容できないものかもしれない。
どんな人にとっても、自分の属していると思っているコミュニティーから落ちこぼれそうになっている、と言うことを真正面から受け止めることはそれなりに深刻であり、自分のアイデンティティーにもかかわる大変なことだと思う。
場合によっては、コミュニティーからはじき出されることもある。強く理不尽な思いを感じるときは、リーダーに対して直接的には異議申し立てができない、説明を受けることができない状況であり、その意味からそのコミュニティーにとどまるか否かはフォロアーの選択にゆだねられている。
フォロアーはこのような事態に対して対処するには、リーダーに対し直接的な行動をとれない場合が大半である以上、面従腹背が当面の対応策となる。もはやリーダーの属するコミュニティーには属していない状態となる。
このように考えると、理不尽さを感じた時の気持ち、感情は敏感にこれらの事情を感じ取っているのであって「理不尽な思い」とは感情ではなく、まぎれもなくコミュニティーの状態を示すものであると言えると思う。
フォロアーのみが感じる理不尽さから考えると、リーダーの在り方とは、次のようなものであろうか。
・リーダーはコミュニティーの価値観を十全に体現しなくてはならない。
・リーダーはその価値観を逸脱した事例を判断する前に、明確な判断基準を提示しておかなくてはならない。
・リーダーはその価値観から帰結する個々の判断について、明確な論理をもって導かなくてはならない。
・リーダーは異なる事例であっても同じ基準で判断していることを明確にしなくてはならない。
そしてリーダーは、フォロアーが「理不尽さ」を感じていないか、何に対して感じているか、これに心を砕かなくてはならないと思う。コミュニティーの崩壊や衰退を招く行為はこれらの逆であることは理解しやすい。
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- 2012/10/01(月) 00:01:15|
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