以心伝心心~あまがさき哲学カフェ~

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120429短歌評

コスモス姫路第120号 P13
 
「街中の小さき丘の中腹に夢の炎のごとく花咲く」大西恒祐


短歌の同人誌「コスモス姫路」では同人誌上に発表された短歌の評を同人同士が書くコーナーがあります。その評を書く役回りが時々まわってくるのですが、今回は上記の短歌の評を書くことになりました。

ます、評を書くため「コスモス姫路」120号を紐解き、次に119,118,117号を見ました。ここまででこの短歌の作者がどうやら「コスモス姫路」には初登場のようだと思い至りました。姫路在住ではない私は同人のお顔をほとんど知りません。歌会へも出席していないので同人誌以外には情報が限られるのです。

次に、詠草の言葉遣いから私よりはご高齢であろうかと推察しました。こうしてここ数日、私はコスモス姫路数冊を持ち歩き、通勤途上で作者の作以外の詠草にも接しながら、気になる語について考えをめぐらせ始めました。
気になるのは、「夢」と「炎(ほむら)」そして「花」です。

本日、久しぶりにゆっくり過ごせる時間があったので新聞の書評欄を見ていると、気になる単語が目に飛び込んできました。「夢」と「覚醒」です。書評に出ていた書名は「夢よりも深い覚醒へ」大澤真幸著。

この名前に見覚えがありました。この3月8日に読み終えた「量子の社会哲学」の著者です。
新聞の書評を読むと、夢から現実へ覚めるのではなく、もっと深く夢の底へ突き抜けるように覚醒するべし。と言う論旨がうかがえました。

ここで短歌に戻ると、「花」がただならぬものとして迫ってくるようです。あやしいぼんやりとした色合いながら人を誘うような危なさをうかがわせています。夢は、さめればよいというものではないようです。
夢の炎に誘われてその花のとりことなってしまう狂おしいような束の間のはかない、しかしとても大切な何かをつかみ損ねたような気分にさせられる。そんな感覚が生まれました。

そこで、短歌評を書きました。

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 いつも通る道、犬を連れてゆっくり歩いていると見慣れた丘の斜面に花が咲いている。何気なく見た花に作者の目は惹きつけられた。花の形や色ははっきりしない。夢で見ているようで見ようとすると見えない。しかし目が離せない。
炎のように揺れて誘われ、とりこになりそうな、狂おしい束の間のはかない、しかしとても大切な何かがそこにあるように思える一瞬。しかし、やれやれ作者は連れていた犬に引っ張られて現実に連れ戻されたようです。

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206字。
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  1. 2012/04/29(日) 23:21:08|
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120429読書ノート

「人間社会の形成」今西錦司 1966/4/20 日本放送出版協会

学生時代に読んでいたらよかったと思いました。社会学への興味がもっと強くなって、何かしっかりと取り組めるテーマに出会えたのではないか、という気がしました。
例えば、家族の起源について、著者は「群れが解体してできたもの」と言っています。なるほどと思わせられました。

哺乳類にとって家族はもっとも基本的な集団だと疑うことがありませんでしたが、野外観察による群れで生活する種類の異なる動物たちの子育ての様子や親子関係を理解して行くと、家族が進化上は比較的新しい関係であり、特に人間の家族は非常に変わった存在であることが理解できます。

あるいは、生態学と社会学の類似性や連続性について気づかされると、そこから敷衍して「新聞記者の生態学」とか「中小企業経営者の生態」とか「ペットから見た家族の生態」とか、「人間も含んだ田畑の社会学」などと言うものが成立しそうなことがわかります。

社会というものは生命に付随する現象ですが、その社会の在り方が生命を規定して行くような、生命が生み出した社会に生命が生かされているとでもいう現象が生じているように思います。

その意味から、ある種の蜂やアリたちの生活、蜜蜂の巣のようないわゆる「超個体的個体」は生命が実践した先駆的な「生命としての社会」なのかもしれません。

おそらく、生命としての社会は、文化と言われるものとよく似ているのだろうとおもいます。あるいは伝統と言われるものかもしれない。「生命としての社会」、あるいは文化は、人間の社会が大きく複雑になれば決して簡単には生まれない、あるいは維持できないことは生命そのものの存在を脅かす事象をほかならぬ人間が起こしていることからも理解できます。

こんなことを考えながらこの本を読み進めると、次第に「こころ」と言うものが社会に存在するものであるという考えが浮かんできました。こころとは、社会に存在していて他人とつながる、代を継ぐと言う役割を担っている、そのようなものではないでしょうか。自分の中にある「こころ」と思っているものは、こころがそれぞれの人間に映ったもの、反映したものと考えることは可能だと思います。

すると、例えば心を病むとは、その反映の仕方に問題があるかもしれぬ。あるいは、社会そのものがゆがんでいることがストレートに反映しているのではないでしょうか。そう考えると、最近うつ病が増加していること、そのうつ病の内容が変化していることなどをもっとよく理解できるのではないかと考えます。

こころが社会にあるとすれば、人間の感情も社会にあるのではないでしょうか。不機嫌な社会。陰惨な社会。陽気な社会。のんきな社会。暮らしていく中で私たちには多種多様な感情が巻き起こります。でも私たちのいる社会にない感情が、私たちに発生することは少ない。と言えるように思います。

さて、社会に存在する「こころ」を考えるなら、一人の人間の側に存在するものは何かあるのでしょうか。こころが私たちに反映するのだとすると、私たちの側からは社会に存在するこころに向かって何事かをしているのではないか、と考えてみました。

すると、「意志」と言うものが浮かんできました。これは、一人の人間の側から社会のこころに対して起こす行動であり得るように思います。意志とは社会の多種多様なレベル(家族、仲間、会社、あるいは伝統)から個人に映りこんだこころがその個人の中で醸成されたものかもしれません。
その意味で意志は個人に属します。だれにでも意志があり、その意志が社会へ向けて行動を引き起こさせているようにも考えてみることができると思います。


人間の社会は、生命に付随する現象としての社会、生活を送るとか、暮らすことが人間の段階に至ってようやく、「生命としての社会」の誕生を待っているのかもしれない。
ただ、それが却って恐ろしい事態なのかもしれないという不安はぬぐい去ることはできません。
  1. 2012/04/29(日) 10:48:12|
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120417レンのお手


外へ出たがらない変な犬です。
庭に降ろして<お手>。
  1. 2012/04/17(火) 21:35:55|
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