「人間社会の形成」今西錦司 1966/4/20 日本放送出版協会
学生時代に読んでいたらよかったと思いました。社会学への興味がもっと強くなって、何かしっかりと取り組めるテーマに出会えたのではないか、という気がしました。
例えば、家族の起源について、著者は「群れが解体してできたもの」と言っています。なるほどと思わせられました。
哺乳類にとって家族はもっとも基本的な集団だと疑うことがありませんでしたが、野外観察による群れで生活する種類の異なる動物たちの子育ての様子や親子関係を理解して行くと、家族が進化上は比較的新しい関係であり、特に人間の家族は非常に変わった存在であることが理解できます。
あるいは、生態学と社会学の類似性や連続性について気づかされると、そこから敷衍して「新聞記者の生態学」とか「中小企業経営者の生態」とか「ペットから見た家族の生態」とか、「人間も含んだ田畑の社会学」などと言うものが成立しそうなことがわかります。
社会というものは生命に付随する現象ですが、その社会の在り方が生命を規定して行くような、生命が生み出した社会に生命が生かされているとでもいう現象が生じているように思います。
その意味から、ある種の蜂やアリたちの生活、蜜蜂の巣のようないわゆる「超個体的個体」は生命が実践した先駆的な「生命としての社会」なのかもしれません。
おそらく、生命としての社会は、文化と言われるものとよく似ているのだろうとおもいます。あるいは伝統と言われるものかもしれない。「生命としての社会」、あるいは文化は、人間の社会が大きく複雑になれば決して簡単には生まれない、あるいは維持できないことは生命そのものの存在を脅かす事象をほかならぬ人間が起こしていることからも理解できます。
こんなことを考えながらこの本を読み進めると、次第に「こころ」と言うものが社会に存在するものであるという考えが浮かんできました。こころとは、社会に存在していて他人とつながる、代を継ぐと言う役割を担っている、そのようなものではないでしょうか。自分の中にある「こころ」と思っているものは、こころがそれぞれの人間に映ったもの、反映したものと考えることは可能だと思います。
すると、例えば心を病むとは、その反映の仕方に問題があるかもしれぬ。あるいは、社会そのものがゆがんでいることがストレートに反映しているのではないでしょうか。そう考えると、最近うつ病が増加していること、そのうつ病の内容が変化していることなどをもっとよく理解できるのではないかと考えます。
こころが社会にあるとすれば、人間の感情も社会にあるのではないでしょうか。不機嫌な社会。陰惨な社会。陽気な社会。のんきな社会。暮らしていく中で私たちには多種多様な感情が巻き起こります。でも私たちのいる社会にない感情が、私たちに発生することは少ない。と言えるように思います。
さて、社会に存在する「こころ」を考えるなら、一人の人間の側に存在するものは何かあるのでしょうか。こころが私たちに反映するのだとすると、私たちの側からは社会に存在するこころに向かって何事かをしているのではないか、と考えてみました。
すると、「意志」と言うものが浮かんできました。これは、一人の人間の側から社会のこころに対して起こす行動であり得るように思います。意志とは社会の多種多様なレベル(家族、仲間、会社、あるいは伝統)から個人に映りこんだこころがその個人の中で醸成されたものかもしれません。
その意味で意志は個人に属します。だれにでも意志があり、その意志が社会へ向けて行動を引き起こさせているようにも考えてみることができると思います。
人間の社会は、生命に付随する現象としての社会、生活を送るとか、暮らすことが人間の段階に至ってようやく、「生命としての社会」の誕生を待っているのかもしれない。
ただ、それが却って恐ろしい事態なのかもしれないという不安はぬぐい去ることはできません。
スポンサーサイト
- 2012/04/29(日) 10:48:12|
- 読書
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
「社会性蜂の不思議な社会」松浦誠どうぶつ社 1988/9/20
若いころに社会学を学び、たいした理解をすることもありませんでした。
しかし、50数年生きてきて人生の一つの区切りを迎えようとする今、もう一度社会学へ立ち戻ってみて見えてくるものがあるのではないか。と言う興味がわいてきています。
この本は、蜂の社会性そのものに焦点を当てて論じているものではありません。動物学として生物学として蜂の観察とその記録です。
そこには専門家ではない私たちには想像もつかない、複雑な営みがあり不思議な現象があります。
それらの現象に、生物学、進化学、生態学などの手法を武器に、しかし文字通り体当たりで観察を続ける動物誌として興味深いものがあります。
さて、蜂にはこんな思い出があります。
足長蜂が巣を作りました。その場所はキッチンの換気扇の中。夏のはじめのころでした。単身赴任先のアパートでは、お湯を沸かす程度ですので換気扇はあまり使っていませんでした。
気が付いた時には、部屋に足長蜂が5,6頭飛び回るほどで換気扇を覗くと、立派なあのハスの実状の巣ができていました。
どうしようか、一日二日と考えているうちに巣がぐっと大きくなっているではありませんか。巣を取り除くよりしかたなく、ガスコンロの火を最大にして湯を沸かして湯気を上げ、換気扇を回しました。熱気と蒸気が巣を直撃です。
隣の部屋の窓から身を低くして外の様子をうかがうと、蒸気が換気扇からバンバン排出されています。蜂は巣を離れ、でも遠くに行かずに何とか巣に近づこうとホバリングから接近しては「熱っ!」と言って飛び離れます。
中には換気扇のフードに着陸するものもいますが、もちろん、次の瞬間にはその場を離れます。その数20頭ほどでしょうか。
最初は、真っ直ぐ近づこうとして失敗すると、いったん壁際にまで寄って横から接近する、換気扇の真下から壁沿いに接近を試みるなど、多彩な戦略を試しています。
1時間ほどそのままにしていると少しづつ蜂の数が減ってきました。遠くへ行ったのではなく、もう少し広い範囲を飛び回っています。
その隙に棒を持って身を低くして巣に接近し、巣を叩き落としました。柄の部分が残るとまたすぐに再生してしまうと聞いたことがあったので根元からきっぱりと落しました。
落ちた巣には幼虫が育房の中でまだ動いています。食べたらおいしいかもとちらっと思いました。
驚いたのは、蜂たちがすかさず寄ってきたことです。巣の近くに止まって様子を見たり巣のまだ動いている幼虫に触角で触れているようです。
幼虫の中には育房から這い出してきたものがありました。その幼虫に蜂が近づきます。何をしているのかはわかりませんが、私には助けようとしているようにしか見えません。落ちた巣のそばにはいつの間にか蜘蛛やアリが集まってきました。
その次の日、幼虫は動きを止め、アリがたかっていました。落ちた巣にはもう蜂は集まっていません。でもまだ蜂は去ってはいません。
巣のあった換気扇の近くをまるで「ここにあったはずなのに」と言いながら飛び回っています。
蜂は翌々日までときどきやってきました。ホバリングしながら換気扇の近くを訪れてはまるであきらめたかのように去っていくことが繰り返されました。
この出来事を通して、私は「蜂にも子を育て巣を守る、そこには苦労や未練もあればあきらめも必要な世界がある」と、当たり前のことのようですが改めて感じました。しかし私は、蜂の「社会」がそこに成立していると感じたのではありません。
未練や悔しさ、よろこびや苦労をよしとして慈しむ、と言う人間に備わっている感情を蜂が持っていることを確信したのです。
それからさらに、嫉妬や未練など人間だから抱く感情と思っているものはおそらく昆虫でも知っているのではないか。と思うようになりました。あるいは、人間は、複雑な社会を構成しコミュニケーション能力や豊かな感情が発達していると考えるのは少し違っていて、感情は、生物が発生した極めて初期の段階から持っているものではないか、と思うようになったのです。
この分野の研究がどの程度進んでいるのかわかりませんが、「動物社会学」なる分野があるようなのでしばらく探索してみようと思います。
- 2012/03/20(火) 13:06:59|
- 読書
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
「進化の運命」サイモン・コンウェイ・モリス 2010 遠藤一圭他訳
本の分厚さに大いに構えたが、参考文献リストが膨大なのがその理由だった。
進化という現象に我々はいまだにたじろいでいる。人間が何なのかという問いにさっぱり答えられていない。それがこの本の主張であろうか。
科学は万能ではない。ただひたすら事実をあぶりだしていくロジックなのだろう。だから、いつまでたっても科学の成果には解釈がついて回る。同じ事実をベースにして如何様にも解釈されうる。解釈の違いが論争を生み、それが科学を前進させている。
すると、解釈することとは何なのか、という別な問いが立つかもしれない。
解釈は「納得」と不可分である。解釈学という学問のジャンルがあるが、なんだろうか。
解釈や科学、これらと対照的なのが政治である。
今を生きるために、遣り繰りと切り盛りをする。経世済民と言う要は遣り繰りである。この「遣り繰り」という言葉は進化において重要な概念である。進化はけっして突飛なことを行うのではない、非常に時間をかけた少しづつの変化の積み重ねが見た目の跳躍を生んでいるだけのことだ。むしろ、進化にあっては生命が獲得した「資産」を経済的に、やりくりしながら環境の変化をしのいでいる。その我慢の代償、あるいは成果として進化を得ているのだと思う。
進化はむしろ、政治と比較されるべきものではないか。それによって進化とは何か、進化が目指しているように思えるものの目的や原動力についての示唆がえられるのではなかろうか。
環境の変化をしのぐという現象が、生命の必然であろう。いやでもなんでも生命は凌いでしまうのである。乗り越えてしまうだ。生命現象の目的は「乗り越えること」、「環境の変化にに立ち向かうこと」そのものであるように思う。
そう考えるならば例えば、人類がなぜ宇宙を見てしまうのか、と言う問いにはどうこたえられるだろうか。それは、「目が星空をとらえるからではない。人類と言う形をとった「生命」が環境を探査し、来るべき変化を乗り越えようとしているのだ。」と言えるかもしれない。
すると、政治にも照り返されるものが浮かび上がる。政治は今をしのぐために、より良い政治は来るべき環境の変化に備えるために、この二つのために存在する。
随分、シンプルなことではある。
僕らは何者か、「環境の内側にあって、内側から環境の変化を乗り越えようするもの」「環境の外側に出ることはできない。内側から知性を持って想像することで変化を察知しようとするもの」それはつまり、生命そのものである。人類が獲得した知性は生命の神髄であろう。
生命の進化や人類の進化を考えることは世俗と隔絶したことではない。むしろ、日々の営みの根源を確かめる作業だと感じている。
- 2012/03/03(土) 21:40:19|
- 読書
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0